「“音楽”は禅なり」(9/9)
太田彩さん(フルート奏者)
キーン。鋭い金属音。
風速50m以上の風の音である。
4日午後、台風21号が近畿地方を吹きぬけて行った。
そこで、今日は「音」の話。
私はかつて大学で哲学を教えていたことがある。
学生のころの私をよく知る友には、
「お前が?」と、よくびっくりされたものである。
(「語らざれば、憂いなきに似たり」。ひとの正体は不可解ではある。)
私の哲学を聴講した人に太田彩さんがいる。
現在はフルート奏者として活躍している。
彼女が自分の教室の生徒さんを連れて坐禅のため来塾。
まだ殺人的暑さのつづいていた、8月下旬のことである。
坐禅の指導後、以下のような話をさせていただいた。
「音楽」とは「音を楽しむ」ことだ。
そして、「音を楽しむ」とは「音を聞いて楽しむ」ことに違いない。
ところで、音の聞き方には2種類あると思う。
一つは耳で聞く、普通の聞き方である。
もう一つは、感覚のすべてを動員し、全身で聴く聞き方である。
どちらが音を正しく聞く聞き方であるだろうか。
それは断然、後者なのである。
前者は聴覚という1感覚だけを働かせる聞き方であるのに対して、
後者は聴覚はもとより、
その他の4感覚(視覚・臭覚・味覚・触覚)も総動員して、
音を全身で受けとめようとすることだからである。
このことは、「無心(私なし)で聴く」と言い換えてもよい。
こうなると、それはまさに禅そのものなのである。
言ってみれば、「聴く坐禅」である。
何事においても同じであるが、
音を聴く場合でも、無心になることが大切だ。
その時に、はじめて「妙音」を聞くこともできるであろう。
そこのところを大徳寺の開山大燈国師は、つぎのように詠っておられる。
「耳で見て眼で聞くならば疑わじ おのずからなる軒の玉水」