「柿を収穫する」(9/16)
桃栗3年、柿8年という。
うまく言ったものである。
禅塾の庭に苗木を植えてから、
ちょうど8年くらい経った去年あたりから、実がつきだした。
去年は5個ほど、明日くらいが食べ時かと、
次の日に行ってみると、すでにカラスにやられた後の祭り。
おいしいところをもっていかれ、悔しい思いをした。
今年はネットをかけて防御。
甲斐あって無傷のまま10ほど収穫できた。
塾生と賞味してみるのが楽しみだ。
収穫したものをいただくことも楽しみだが、
それ以上に、育てながら収穫を待つ、このことの方がもっと楽しい。
わが柿木など、寒肥を一度、周辺の草刈りを年に二、三回やったくらいで、
大した世話もしていないのであるが、
それでも時々、葉っぱが虫にやられていないか、
風で倒れていないか、水枯れしていないか、と気にはかけている。
それは柿木と私とのささやかな対話の時間である。
自然の中に霊的存在を見る、
こんなことは現代人には迷信のように思われるかもしれない。
それは現代の生活が自然から余りにも離れすぎていて、
われわれの全生存が自然に依存していることを忘却しているからである。
古代の人たちが、自分たちをとりまくあらゆる存在に
霊的なものを感じたのはなぜか。
それはかれらが自然と共生していたから、
共生していることを肌身で感じていたから。
自然と共にある人たちの生活を見れば、そのことが分かる。
だから真現実を再確認するために、現代人には自然に触れる生活が必要だ。
そうすれば、一切衆生悉有仏性(あらゆるものに仏性がある)ということも、
決しては虚言でないことが理会できるようになるだろう。