「杉本耕一君のこと――彼岸入りの日に」(9/20)
杉本君のことは『日本哲学史研究』(別冊:杉本耕一博士追悼号、2018年7月)の
「《追悼》在りし日の杉本さんを偲んで」の欄に小文を寄稿したのであるが、
書き残したこともあるので、ここに記しておきたい。
杉本君との出会いは、私が、平成9年に京都大学文学部に新設された
「日本哲学史講座」の「講読」の授業を依嘱され(平成8年)、
その授業に杉本君が出席していたのが最初である。
その時の印象ははっきり覚えている。
丸坊主で背は高くないが、骨格のがっちりした、
先師浅井義宣老師の言葉を借りれば、
「真言宗のお坊さんのような」風合いであった。
彼が私を通して長岡禅塾に入塾してきたのは、
出会いから1年たった平成9年、学部生3回のときである。
それから愛媛大学に就職が決まる平成25年まで、
(ただし平成14年から2年ばかりの間、博士論文を仕上げるために退塾)
彼は禅塾にて修道生活を送ったのである。
出会いから言えば、杉本君と私は
教師と学生の関係になるのであるけれど、
同じ師匠について参禅弁道した間柄から言えば、
法の上での兄弟、彼は私の数少ない弟弟子にあたるわけである。
杉本君が禅塾でどのような生活を送っていたのか、については、
その間、私は自宅から参禅に通っていたから、詳しくは知らない。
ただ、長く禅塾に住んでおられた尼僧の佐藤祖渓さん(平成21年遷化)は、
「杉本はんは、将来ドエライ人になりはりまっせ」と言っておられたとか。
この言葉から、彼のその生活ぶりの大よそが想像できる。
愛媛大に就職が決って退塾の日が近づいたころ、
浅井老師がわざわざ杉本君のために送別会を開かれた。
(こんなことは、初めての経験だった)。
場所は、高価なので普段は前を通りすぎるだけの、お隣の錦水亭。
他の塾生数名、私もふくめて和やか会であった。
帰る途中、老師が私にぼそっと言われた。
「杉本君は少しも偉ぶるところがないなぁ」。
頭を低くすること(低頭)は、禅修行の基本中の基本である。
愛媛大学に赴任してからも、
京都での研究会の行き帰りに
しばしば禅塾に立ち寄ってくれ、
(そのため、彼のために一室用意されていた)
時間を見つけて、せっせと植木の刈込や剪定をやってくれたので
私の方は大変助かっていた。
君の死は突然であった。平成28年4月21日。
3月下旬、東京での学会か研究会の帰り、
新入塾生のための指導を3日間お願いしたら、快く引き受けてくれ、
「それじゃ、また」と言って、別れたのが最後となってしまった。
杉本君の死は学界にとって、
大きな損失であることは、言うまでもないことだろう。
しかし、長岡禅塾にとっても、その思いは同じである。
われわれは杉本君のような卒塾生をもったことを
いつまでも誇りにしたいと思う。
みんなでご冥福を祈ろう。