永源寺(禅寺探訪2)(11/22)
長岡禅塾の紅葉も見ごろを迎えました。
長岡禅塾禅堂前庭の紅葉
京都にある禅寺の本山で、
紅葉の名所といえば、まず東福寺の名が浮かびます。
滋賀に行けば、なんといっても永源寺となるでしょう。
永源寺山門前の紅葉
永源寺(東近江市)には、
これまで何度か訪れたことがあります。
昔、禅堂でも一度坐らせていただいたこともあります。
伽藍全体が奥深い山ふところに抱かれており、
禅堂の一方の窓の下が、深い渓になっていて、
おのずと道場の峻厳さを感じさせてくれました。
永源寺は南北朝時代の1361年、
寂室元光禅師を開山として創建された名刹ですが、
その第143世管長に就かれたのが、
禅塾卒塾生である篠原大雄さん(1939-2011)なのです。
正式には仙巌室大雄承忍大和尚とお呼びします。
篠原大雄老師は1959年から5年間、禅塾の塾生として
森本省念老師について参禅弁道に励まれました。
当時のことが、『禅文化』221号に対談形式で出ています。
それを読むと、
塾生の数が常時15~20名という大所帯であったことを除けば、
規矩は大筋、現在とあまり変わらないことが分かります。
浅井義宣老師もその頃は一塾生であったわけですが、
非常に質素な生活をされていたと、そこで述べられています。
「本当に質素でした。義宣老師の部屋には
物がほとんどないんですよ。
小机があって、祖録や辞典類、硯箱など、
最小限必要なものは持っておられましたが、
押入れには寝具と柳行李がたった一つだけはいっておりました。
その簡素さに驚きましたね。」
篠原老師は建仁僧堂に掛搭され、竹田益州の法を嗣がれたのですが、
その経緯については、次のように語られています。
「(森本老師は竹田)黙雷さんを非常に尊敬されていましたね。
『建仁寺の黙雷さんんがよろしいで。
あの人の法が流れているから、建仁がいいでっせ。
とにかく、建仁寺へ行ったら
15年は帰ってきたらあきまへんで』と言われましたね。
15年くらい益州老師にへばりついて修行しなさいと。
それでその通りにしました。
良くても悪くてもいいからとにかく15年はと言われました。」
このほか、こんなことも話されています。
「省念老師は、『向上心のない奴は駄目だ』というのが口癖でした。(中略)
人生というのはいっぺんきりですから、毎日が新しい。
すべてチャレンジですから、毎日毎日、作っていくのですね。
飯山の正受老人に『一日暮らし』という言葉があります。
一日が一生だと思って、朝起きて、晩寝るまで一所懸命に、
しかも自然体で生きていけるというおしえです。
私の一番気にいっている言葉です。」
最後に、開山寂室の偈頌(読み下し文と訳)をここに記しておきましょう。
この偈頌は、西田幾多郎が自らの書斎を「骨清窟」と称した、
その由来をなすことでも有名です。
風 飛泉を攪(か)いて 冷声を送る
前峰 月上って 竹窓明らかなり
老来 殊に覚ゆ 山中の好(よ)きことを
死して巖根に在らば 骨も也(ま)た清からん
風が滝をかき乱して音を送って来る
前方の峰には月が上って窓は明るい
年老いてことさら山中が好ましくなる
この岩の根もとで死ねたならば、骨まで清かろう
『永源寂室和尚語録』
なお、永源寺の現在の管長は、道前慈明老師です。
老師もまた禅塾出身で、1967~1968年の間、在塾されていました。
永源寺は禅塾と深い因縁のある禅寺なのです。