明治の傑僧 釈宗演(11/29)

 

いま、花園大学の歴史博物館で、

釈宗演展が開かれている(12月8日まで)。

今年が楞伽窟釈宗演(りょうがくつ しゃくそうえん)老師

(安政6年~大正8年)の没後百年にあたり、

いろいろの企てがなされているようだが、

この展示会もその一つである。

 

(釈宗演老師)

 

宗演老師については、

25歳の若さで今北洪川(いまきたこうせん)老師の法を嗣ぎ、

洪川老師の遷化にともない、

円覚寺派管長および僧堂師家に就いたこと(33歳)、

その参禅者の中に鈴木大拙や夏目漱石がいたこと、

公案修行を終えた後、

慶応義塾(26歳)やセイロン(28歳)で学んだこと、

シカゴで開かれた世界で最初の万国宗教会議に出席したこと(34歳)、

が、比較的よく知られている事実だと思う。

 

今回『禅文化』250号が、宗演老師の没後百年に合わせて

特集を組んでいるので、読ませていただいた。

それを通じて、改めてつよく感じたことは、

老師は時代の流れに非常に敏感で、

人一倍、進取の気概に富んだ方であったということである。

 

宗演老師の生まれた安政6(1859)年といえば、

幕府が露仏英蘭米五か国との自由貿易を許した年である。

福沢諭吉はこの年に開けたばかりの横浜の街を歩いてみて、

街中、英語の看板であふれているのに驚いている。

そして、このとき福沢は、これからは蘭学ではなく、間違いなく

英語の時代がやってくると直感するのである。(『福翁自伝』)

 

(福沢諭吉)

 

日本は世界へと開かれ、文明開化が叫ばれた。

宗演老師の眼もまた、伝統墨守の社会を打ち破って、

世界へ向けられていた。

大事了畢後の老師の行動のひとつ一つ

――慶応義塾入学、セイロン留学、万国宗教会議出席、等々

――は、みな日本を越えて世界を意識したものであった。

 

ところで、世界に出て行くためには、

その道具として世界共通言語の習得が不可欠である。

福沢諭吉はそれを英語だと先見した。

だから慶応義塾でも、

「教うるところのことはいっさい英学と定め、

英書を読み英語を解するようにばかり教導」した。(『福翁自伝』)

 

宗演老師が仏教に関係しない普通学の学舎として、

なぜ慶応義塾をえらんだのか、

この点について、わたしは詳らかにしない。

しかし、少なくともその大きな要因の一つとして、

世界を見すえた老師にとって、

英語教育に熱心な慶応義塾が魅力的でなかったわけがない、

と思うのである。

 

こうして、宗演老師の下から、在米十数年の経験による、

流暢な英語で、世界にむけて禅を語りはじめた

世界の禅者・鈴木大拙が誕生してくる。

いまや、禅はZenとなったといわれるが、

その種を蒔いたのは、間違いなく釈宗演老師であったのである。

 

 外は広い、内は深い(鈴木大拙)