成り切る」(12/13)

 

前回12/8の「禅塾だより」で、

臘八大摂心の報告をしましたが、

”摂心とは「成り切る(三昧)」行を

一定期間を限って集中的に修することである”

と言うことができます。

 

禅の修行では、

よく「成り切れ」と言われます。

”眼前の事・物に成り切る”の意味です。

”事・物と一つになる”と言ってもよい。

 

なぜ、このようなことが、やかまし言われるのか。

それは、たえず事・物と一つになることを通して、

我の存在を、忘れ忘れて、

ついにそれが、仏教の究極の到達点である

無我の境地を手に入れることにつながるからです。

 

我が事・物に成り切り、事・物と一つになれば、

我は事・物の中にいわば拡散して、我はついに無くなる。

我無し、つまり無我です。

よく目にすることのある、手脚のない達磨さんの飾り物は、

達磨大師の到りついた無我の境地を示しています。

 

昔、白紙の答案に大きな達磨を描いて、答案を出した学生がいました。

その心は、「手も足も出ない」。本人はしゃれたつもりでしょうが、

なんともナサケナイ話です。 喝!

 

法輪寺の達磨

法輪寺(京都市上京区)は通称「達磨寺」と言われ、

全国各地から奉納された8千余りの達磨が祀られています。

 

閑話休題。

無我となった我には、

いわゆる自我は消散してしまって、もはや無いわけですから、

他の事・物・人と対立することはありません。

反対に、他を慈しみ哀れむ、慈悲の主体となります。

人びとの中から、仏様が出現されるのです。

 

それにしても、事・物に成り切り、

一つになることの何と難しいことでしょう。

試みにこのことを、いま数を数えることでやってみましょう。

ーーー できるだけゆっくり深呼吸をしながら、

心の中で一から十まで数を数えます(これを数息観と言います)。

 

すると、どうでしょう。その間に雑念がわいてきて、

数を数えるという、成り切り、一つになろうとする行為を邪魔し、

中断させてしまいます。

このことを通して、私たちは、

わが心の無明の闇の深さを知らされることとなります。

 

ですからまた、いっそうの精進が求められるわけですね。

繰り返し摂心の必要なわけがここにあります。