私の西郷どん(12/20)
西郷隆盛(エドアルド キヨッソーネ作の版画)
今年のNHK大河ドラマ「西郷どん」も、
16日に最終回を迎えたようだ。
私はこのドラマを、ほとんど見なかったのであるけれども、
禅的な関心から、西郷隆盛について少し書いてみよう。
私の西郷どん像は、
私がかつて見た薩摩桜島の風景と重なる。
今から3年前の3月中旬、
私は薩摩半島を小旅行した。
そのときのこととして最も印象に残っているのは、
何と言っても桜島の圧倒的な光景である。
桜島と海王丸
毎日、ホテルの窓から、錦江湾の向こうに、
そのどっしりとした雄姿を見ることができたのであるが、
特に夜になると、火口付近から赤々と火花が上っているのが見えて、
それは美しいと言うよりも、何か原始の時代に
自分が立ち会っているような、
そんな異様な感じすら受けたものであった。
桜島が今でも活火山で、噴火をつづけているが、
私のいる間は幸いに、島に渡って火口付近まで近づくことができた。
近づいてみると、地の底から腹にまで響くような
ものすごい地響きがして、恐ろしいほどの迫力であった。
薩摩半島を旅して、最も強く印象に残っているのは、
そのような桜島のそれなのであるけれども、
私の西郷どん像は、その「どっしり」として「悠然」たる
桜島の印象と重なるのである。
西郷隆盛像(鹿児島)
ところで、桜島のように、
身も心も「どっしり」した感じの西郷どんは、
どのようにして誕生したのであろうか。
その根は、西郷どん自身の生まれつきの質によるのでもあろうが、
私はそこに禅の影響も考慮してみたいのである。
西郷どんは17歳から28歳までの10年間、
毎日、怠ることなく、円了無三和尚に参じて修行していた。
10年毎日の修行と言えば、かなりのもので、そう簡単ではない。
その結果、生来の気質と相まって、
ますます「どっしり」した腹が、
でき上がっていったものと考えられる。
西郷どんの言行中に、禅的なものを一つ二つ探ってみよう。
『南洲翁遺訓』に、つぎの文言が見いだされる。
「命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。」
「命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」とは、
これはまるで、禅で言うところの無一物底、臨済の一無位の真人である。
このような人の前に立てば、すべてが見透かされてしまう。
だから、「仕末に困る」のである。
この上は、こちらもまた無一物(裸)となって、相対するほかない。
だが、それはいったい誰のことを言ったものなのか。
そこには、あるべき西郷どん自身の姿も
投影されていたのではなかったか。
坂本龍馬は西郷どんを評して、
「つかみどころのない馬鹿のように見える。
しかも底の知れぬ大馬鹿。」
と言ったと伝えられている。
「魯(ろ)の如く愚(ぐ)の如し」とは、
禅を生きる人の究極の形姿(なりかたち)なのだ。
(拙著『禅に親しむ』224頁以下を参照)
また、こういう逸話が残されている。
西郷どん、ある酒席で冗談に芸者に向って、
「いいものをあげよう」と言って、
火鉢から火をはさんで差し出した。
芸者は偉い西郷さんの手前、断り切れず、
仕方なく着物の両袖で、それを受け取った。
が、心中穏やかでなかったその芸者は、
仕返しに同じことを西郷どんにしたのである。
ところが、西郷どんは落ち着いたもので、
「はい、ありがとう」と言って、
おもむろに煙管をとりだして、一服煙草を吸い始めたと。
(『禅門逸話撰』)
こういう咄嗟のはたらきを禅機というが、
わたしがこの話をおもしろいと思うのは、
白隠禅師の高足のひとり遂翁(すいおう)に
同じような話があるからである。
「僧、遂翁に別れを告げる。
翁、火を挟んで謂わく、汝に餞別す。
僧、擬議す(うろたえる)。」
なんと、遂翁は餞別に火鉢の火を渡そうとしたのである。
この一手こそは、禅一流の活作略、命とりの爪牙なのであり、
これに応えることのできないものは、奪命の憂き目に遭うこととなる。
果せるかな、僧は対応することが叶わなかった。
しかし、西郷どんならそこで、
何か気の利いた一句を言いえたに違いない。
それはどのようなものであったであろうか、
そんなことを思うと、私は自然と楽しくなってくるのである。