坂村真民のこと 禅と詩魂と(2/14)
知恩院山門
知恩院山門の右手、女坂を上りつめたところに
坂村真民の詩「念ずれば花ひらく」の冒頭の句が
巨石に自筆の文字で刻まれている。
最初に、この詩の全文を掲げておこう。
念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった
坂村真民の詩句碑
実はこの詩の作者坂村真民(1909-2006)は
かつて長岡禅塾を訪れ、
当時の塾長森本省念老師に相見しているのである。
その様子が雑誌『致知』(2017-12)誌上での、
坂村真民記念館館長の西澤孝一氏と
円覚寺の横田南嶺老師との対談を通して詳しく語られている。
まず訪問の時期であるが、
禅塾の日単(日誌)を調べてみると、
昭和41年8月5日の箇所に、
「柳田聖山夫人と詩人坂村真民とその娘と独文学者飛鷹学士と相見」
の記事が見える。
そこに「飛鷹学士」とあるのは、
一時期、わたしどもと一緒に浅井義宣老師に参禅されていた
飛鷹節京大名誉教授のことであり、
愛媛県出身の飛鷹さんが彼の地で真民と親交のあったことを
私は以前お聞きしたことがあった。
真民は森本老師に相見した時の印象を、
「私は本当の禅僧に会った気がした」と、
自らの詩記に記しているそうである。
ところで真民はどうして、
わざわざ森本老師を訪ねたのであろうか。
真民は昭和25年41歳のとき、
愛媛県にある臨済宗妙心寺派専門道場、
大乗寺での参禅を決意し、
河野宗寛(こうの・そうかん)老師について厳しい修行を自分に課した。
この河野老師は森本老師と相国僧堂において
兄弟弟子の間柄で、無二の親友だったのである。
おそらく真民は河野老師を通して、
「大きな修行道場の老師になったり、
本山の管長になったりは終生」せず、
また、「一冊の本も書かず、京都の長岡京で禅塾の塾長を務め、
そこで学生さんたちを預かって」
「九十五歳まで清貧を貫いて生きられた禅僧」
森本老師の存在をおしえられたのであろう。
続けて、横田老師の言葉である。
真民は「やっぱり名利を求めず
どこまでも自己を掘り下げていく森本老師の生き方に、
相通ずるものがあったのでしょうね。」
その森本老師から真民は、「三つの子でも分かる詩をつくれ」と言われ、
そのことを自分の課題にしたそうである。
平易なことばで、清澄無垢な詩を歌い上げる真民詩作の源は、
そのあたりにあるのかも知れない。
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