夢の如くに相似たり(3/14)

 

墨書「夢」 北野大雲

 

禅僧が遷化(死去すること)する際、

古来、遺偈を残す習慣がある。

(遺偈については『禅に親しむ』29頁以下参照。)

 

ここでは沢庵禅師の遺偈について見ておこう。

死後、自分の生きた跡を一切残さぬよう遺戒した沢庵禅師は、

弟子が遺偈を求めたのも拒み、ただ「夢」の一字を大書し、

余白に小さく、

 

百年三万六千日 弥勒観音幾ばくの是非

是も亦、夢 非も亦、夢

弥勒も夢、観音も亦、夢

仏云く、応(まさ)に是(か)くの如き観を作(な)すべし

と書いて示寂した(原文漢文)。

 

文意は、「一切は夢である」というのであり、

それこそ釈尊の教えであったと説くのである。

ちなみに、「仏云く、云々」は、

金剛経の以下の偈頌を踏まえている。

 

一切の有為法(有るもの)は、

夢・幻・泡・影の如し

露の如く亦、電の如し、

応(まさ)に是(か)くの如き観を作(な)すべし

 

「一切は夢」という見方は沢庵にかぎったことではない。

むしろ仏典や祖録のいたるところに見いだされるものである。

たとえば、高僧の歌の中でも、この世のことは「夢」であると詠われる。

 

・夢の世に夢のことくに生れきて 露と消(え)なん身こそやすけれ

(夢窓国師)

 

・かりの世にまた旅ねして草枕 ゆめの世にまた夢をみる哉

(慈円)

 

・何ごとも夢まぼろしとさとりては 現(うつつ)なき世のすまい成けり

(法灯国師)

 

このような表現は、「一切皆空」を標榜する仏教の立場からすれば、

しごく当然のことではある。

だから、沢庵の「夢」字も、

仏教の真理を道破したものと言えるのである。

 

つり灯籠(長岡京・水上橋)

 

なお、沢庵禅師には別に「夢百題」と題した一連の詩が残されている。

全体に、無常感を湛えた、しっとりとした歌いぶりと見うけられた。

幾つか、引いておこう。

 

・夢のよを ゆめともしらて みる人は さめよと千鳥 夜にはなくらん

・一とせを ひとよになせば 津の国の なにはのことも 夢とくれぬる

・夢となる むかしを今の 物かたり ふる世いくたの 川のをし鳥

・むさし野は はてしなけれと 草分て 程なくかへる 古郷の夢

・雲となり 雨としくれて 夕煙 なき世の夢の はてそかなしき

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