卒塾生の声   

 

「禅塾での生活から学び得たこと」 辻村知夏 (2019.03.26)

 

わたしは京都の芸大を出て、大学院を目指して勉強をするために長岡禅塾に入塾しました。

一年間という短い期間ではありましたが、ここで得た学びは濃厚で密度の高いものであり、老師、雲水さん、他の塾生さんをはじめ支えてくださった方々に心から感謝しています。

 

実際どんなところなんだろう?と気になっている方のために、「生活」と「禅」の面から、私の見た長岡禅塾についてご紹介できればと思います。

 

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まず、この生活では「画面を見る(スマホを触る)」時間がかなり減ると思います。

もはやスマホは生活の一部として当たり前になっていますが、わたしたちはあの小さな画面の中で、ゲームやニュース、ファッションやスイーツなど、次から次へと情報を消費したり、供給されるサービスや物質をお金で買うことで「慢性的な不足」を満たすことができています。

もちろん、その原理が素晴らしいコンテンツや文化を生み出していることも事実で、それ自体が悪いわけではありません。

ですが、その「慢性的な不足」は、「本当の美しさ」であったり「本来の自己」といったことへの探求を、評価の荒波の中で見失わせてしまうように思います。

 

長岡禅塾は、そういった俗世の「消費」や「評価」の喧騒からは隔絶された場所にあります。

門を一歩くぐるとそこは時間が止まっているかのようで、お仕事に行って帰ってきたときなどにはそのあまりのギャップに目が回るほどでした。

毎日の坐禅や、雑巾掛け、雑草抜き、落ち葉の掃き掃除といった作務を「淡々と」やっていくことは、せわしなく息が浅くなりがちな毎日の中で「ゆっくり息をする」ことを思い出させてくれるものでもありました。

 

また、規矩(規則)によって区切られた生活はかなりストイックなものになります。

わたしも大学時代はかなり不規則な生活を送っていましたが、いわゆる一般的な大学生の活動、すなわち、バイトやサークルの付き合いなどは難しくなると考えていただいて間違いありません。(もちろん、相談次第で多少融通をきかせることはできます)

このことによって捨てなければならないものはもちろん多くありますが、得るものもまたかけがえのないものになります。

 

早寝早起きはつらいときもありましたが、生活がくっきり区切られることによって勉強や仕事に対する集中力が上がり、日々の感覚もまた研ぎ澄まされたものになっていくように思われました。

朝の作務の時間にみえるもの、たとえば朝露に濡れて瑞々しく光る苔や、木々の枝ぶりの美しさ、葉の隙間から差す朝陽のきらめきなどは、ここに来なければ見ることのできなかった景色として心に焼きついています。

また、夜には当番制で施錠のための見回りをするのですが、晴れた夜には月明かりがまぶしいほどで、うかびあがる屋根瓦や、月の光によって落ちる冴え冴えとした「影」がこんなにも蒼く美しいのか、と、見るたび驚かされます。

 

人生に求めるものは人によって千差万別ですが、日々の中で自分自身が「何を得たいのか」を見つめると、視界がクリアになってくるようにわたしは思います。

禅塾の生活は、機微と静謐の中でそれを考えさせてくれるものでした。

 

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もともと宗教に興味があり、大学院では宗教学を研究するためにこの一年間勉強していたのですが、仏教諸派の中でも「禅宗」は特に、外側から観察したり理論を学ぶだけでは理解できない「ブラックボックス」のように思われました。

実際中に飛び込んでみると、お経を読んだり、坐禅をしたりといったことは禅の生活のごく一部分、一側面にすぎないということがよくわかります。

 

また、臨済宗特有の修行法である「公案(老師と一対一で行ういわゆる「禅問答」)」に取り組めるという点でもここは非常に貴重な場所です。

 

坐禅と公案をベースに、掃除や食事、歩くことや話すことなど、すべての要素がつながっていて、ひとつひとつの所作、眼に映るものすべてに「はたらき」があるのだということを、普段の生活および夏・冬の「接心」(一週間の集中修行期間)のなかで、少しずつ感じられるようになってきました。

(とはいえたったの一年ですので、まだまだ片鱗すら掴めていません。修行は続きます)

老師による「提唱」(禅の講義)はとても刺激的で、そこで得たことがヒントとなって、生活のなかで「閃く」こともたくさんありました。

そこにあるのは、いわゆる世間一般での「宗教」イメージに漂う「ある価値観を強要される」空気ではなく、自律と他律のあいだにある「律」、一本の筋のようなものだけです。

「やり方」や「見え方」ではなく、「在り方」を学ぶ場であったように思います。

わたしは、最初に見学に伺ったときに見た豊かな庭と生けられた花、建物全体の美しさ、スッと伸びる木の廊下の気持ち良さに、「ここなら大丈夫だ」と入塾を決意したことを覚えています。

実際に入ってみると、その美しさは毎日の作務(掃除、手入れ)によって保たれている景色であり、80年以上もの間、歴代の老師、禅塾を支えている人々、そしてなによりも塾生の方々が守って来られたものだということが身にしみてわかります。

そこには生命が光っています。

 

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「評価を事前にネットでチェックする」ことが当たり前な風潮がありますが(この紹介文もそれに寄与するものですが笑)、
この世はまだまだ「行ってみなければわからない」「やってみなければわからない」ことで満ち溢れています。

少しでも気になった方は、ぜひ、一度長岡禅塾を訪れてみてください。

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