挫折の意義について(4/4)
(長岡禅塾の垂れ桜)
4月に入ると、
晴れやかな入学式・入社式のニュースが報道されるようになる。
それはそれで、まことにお目出度いことであり、
そのことに対して何か異議を申し立てるつもりは全くない。
しかし、それは現象の一面だけを見てのことであって、全面ではない。
言ってみれば、それは陽の面だけの話であって、
その反面である陰の面がそこでは隠されている。
残念ながら、不合格にして、
その列に並ぶことのできなかった人のことを、
私はいま考えているのである。
悔しいであろうと思う。
悔し涙が込み上げてくるだろうと思う。
しかし、そこで挫けてはいけない。
なんとか態勢を立て直して
前進すべきなのである。
もしその挫折体験を乗りこえることができれば、
そのことはその人を人間的に大きく成長させるだろう。
挫折の意義はそこにあるのである。
考えてみればよい。
たとえば人類の大事業はすべて、
幾度と繰り返された失敗(挫折)の上に築きあげられてきたものであることを。
人間の場合でも同じである。
挫折は人間の心を深く耕す鋤でもある。
そこからよく陶冶された人間、大人物が
練り上げられてくるのである。
挫折を知らない人は、人物として
底の浅い人間になり終りやすいものである。
「畢竟、勝敗なし」 大雲