「日常」としての禅         大植 堯文(三重大学医学部)

 

私は三重大学で医学を勉強する学生です。

週末を利用して月1程度、禅塾で過ごさせて頂いています。

 

なぜ自分が長岡禅塾を訪れるようになったかというと、

医学生として、人間として、心の問題に強い関心があったからです。

昔から頭で思い描いた自分に振り回され、悩むことが非常に多い性格で、

ふと現れる考えや不安に飲み込まれ、目前の現実への対応がおろそかになりがちでした。

 

人間は備わった「想像力」や「記憶力」を駆使して、

過去や未来の自分に思いを巡らし、現実に集中できなくなることがあります。

この状態をマインド・ワンダリング(心の迷走)というようです。

心の迷走は人間の心身に大きなストレスをかけ、心の病をすら引き起こしてしまいます。

 

現代はスマホがあり、SNSなどを通して多くのテキスト、情報が目に入ってきます。

大量の情報にふれた脳は、反射的に思考を巡らせ、迷走してしまう。

物質的に豊かであっても、多くの人々が心の問題で苦しんでいるのは、

溢れる情報に圧倒され、心が時空をさまよい歩いてしまっているのが一因でしょう。

 

東洋的、仏教的な生き方、なかでも禅的な生き方には、心の迷走による苦しみから、

人間を解き放つヒントが隠されているのではなかろうか、そんな直感がありました。

ただ、禅的な「あり方」「生き方」は理屈ではなく、

本を読むだけではどうしても理解できません。

直に経験しなければならない、

長岡禅塾ならば本格的に禅を体験できるのではないか、そう考え門を叩きました。

禅塾を訪れた選択は、人生の中でも最良の選択の一つであったと思っています。

私が体験した禅塾の生活を一言で表現すると、

それは「目の前のことに集中しきる生活」であろうかと思います。

言い換えると、それは「マインドフルな生活」「三昧な生活」とも言えると思います。

 

塾生の生活は、厳しい規矩(規則)によって律されています。

朝の起床は五時、そして坐禅や参禅、掃除や食事の準備といった作務を、

決められた時間、やり方で日々、淡々と行っていきます。

食事や坐禅には、一つ一つの動作に作法があり、それに従って動くことが要求されます。

その間、スマホやパソコンといったものは一切触ることができません。

目の前の仕事に集中し、自分に思いを巡らす暇がない。

そんな生活を「日常」のこととして、当たり前のこととして送っていきます。

そして、「マインドフル」な「日常」により、

結果的にストレスや自己への捉われからくる苦しみから解放されていることに気づきます。

これこそ、長い歴史の中で受け継がれてきた、禅の智慧なのだと思います。

(禅寺の生活や坐禅は、決して利益や効用を求めて行うものではありませんが。)

 

「眼前のことに集中しきる」「マインドフル」な生活が「日常」であるということは、非常に重要です。

それは、「日常」の「姿勢」や「あり方」に直結するからです。

この文章を読んでいる方なら、坐禅会には参加したことがあるかもしれません。

坐禅会での時間、経験はどうしても「非日常」、特別なものにならざるを得ないでしょう。

坐禅中は「マインドフル」になっていたとしても、自宅に帰り、

それぞれの日常に戻ると、結局、様々な刺激に翻弄されてしまう。

それは、「非日常」な出来事は人間の「姿勢」を変えるには至らない場合が多いためです。

 

禅塾では「目の前のことに集中する」生活が「日常」になる。

それは自ずと自らの「姿勢」になっていきます。

私の場合、三重県での学生生活こそが日常なのですが、

何度も訪れ、禅塾で生活を送っていくなか、

禅塾での「日常」が「姿勢」を変え、自分のものになってきたと感じます。

 

また、長岡禅塾に住むことは、日本の伝統や文化を肌で感じる絶好の機会です。

境内は美しい自然に溢れ、自ずと四季を感じざるを得ません。

草履に和服のいでたちで過ごします。

現在では幻のように思える、伝統的な日本人としての生活を体験できます。

 

そして、茶道や武道といった日本文化と禅は密接な関係がありますが、

禅塾での生活は、それら日本文化の根底にある精神性に気づく良いきっかけになると思います。

日本的な教養がこれほど自然に身につく場所は他にないのではないでしょうか。

 

少しでも関心のある大学生は、ぜひ一度、長岡禅塾の門を叩いてください。

本物の老師、雲水、環境が人間として成長させてくれます。

禅塾での生活が「日常」となる、その素晴らしさは、すぐにでも実感できるはずです。

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