植物の情(こころ)――沢庵宗彭『玲瓏集』より(6/6)

 

禅塾の書院庭

 

栗や柿には

痛みも悲しみもないというのは

人間が外から見た考えです。

 

栗や柿の身の上には、

痛みも悲しみも

自然に備わっているように思われます。

 

草木が痛んでいる風情は、

人間が痛みを憂えているさまと

変わることがありません。

 

水を注いでやったりして、

生き生きとするとき、

うれしそうな風情があります。

 

切れば、倒れころんで、

葉がしおれてしまうさまは、

人間が死んでゆくのと変わりません。

 

しかし、草や木の痛みや悲しみを、

人間は知りません。

草や木もまた、

人の悲しみを見ること、

人が草木を見る場合と同じく、

痛み悲しみもないと思うでしょう。

 

サツキ(禅塾垣根)

 

我々は草木のことを知らず、

草木も我々のことを知らない、

ただそれだけのことでしょう。(後略)

 

植物が生えている側に

壁や築垣(ついじ)などがあると、

植物はその枝が南へかたよるのを見れば、

植物に目はないけれども

障害物があるのを知る能力があることが

はっきりわかります。

 

夜は眠り、昼は開く、

百合の花のたとえもありますが、

百合の花だけではなく、

あらゆる草木は、どれひとつとして、

この道理のないものはありません。

 

よく気をつけないから、

知らずにすますのです。

草木のことまで、

知りつくすのは聖人の智慧です。

 

たいていの粗雑な心では、

わからないことです。

*現代語訳:市川白玄『沢庵 不動智神妙録 太阿記』(講談社、昭和57年)

 

ユリ(禅塾庭)