漱石と禅(7/11)
漱石胸像(漱石公園入り口)
「漱石年譜」に、
漱石が「鎌倉円覚寺塔頭帰源院に入り釈宗演と知り、
釈宗演の下に参禅」したことが記されている。
明治26年(漱石27歳)のことである。
それから17年後に、
漱石は小説「門」を朝日新聞に連載しはじめるが、
その小説の終わり近くで、主人公が心の「不安と不定」を癒す目的で、
鎌倉の禅寺に10日ばかり籠る話が書かれている。
その箇所の描写は仔細で(特に、主人公が入室参禅する場面)、
実際に経験したものでなければ描けないようなリアルさが感じられる。
思うにそれは、
明治26年の漱石自身の参禅体験がそこに生かされているからであろう。
このことはさておき、
「分別」の世界に生きる小説の中の主人公は、
10日間でついに山を下りることになる。
そして、漱石は主人公について、次のように書く。――
「彼は門を通る人ではなかった。
又門を通らないで済む人でもなかった。
要するに、彼は門の下に立ち竦(すく)んで、
日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」
「門」とは、その場合、直接には禅寺の門(山門)を意味しよう。
しかし、それは同時に、「不安と不定」の俗世間と、
それらを超越した平穏無事な世界、
それら二世界を隔てている「門」のことでもある。
実は、そうした「門」は、分別心が生み出す妄想にすぎないのであるが、
「分別」の立場に終始している人には、そのことが分らない。
だから、いつまでも「門」の外に立って、
「門」の向こう側を夢見つづける「不幸な人」たらざるを得ないのである。
この「不幸な人」とは、実は漱石自身のことでもあった。
彼は、最後まで汚濁の世間の側から、汚濁を離れた別世界、
漱石晩年の言葉で言えば、「則天去私」の世界を理想郷として仰ぎ見ていた。
この意味で、漱石は結局、
外から禅の世界に「憧れつづけた人」ということになるだろう。
その良い例の一つ挙げよう。
神戸祥福寺の雲水との交友のことである。
漱石の最晩年、
それまで手紙のやり取りをしていた祥福寺の雲水二人が
東京見物のため漱石山房に止宿することになる。
漱石夫人である夏目鏡子によれば、
僧堂の単純な生活に以前から憧憬をもっていた漱石は、
いつも山房に出入りする、頭ばかりが発達した小説家志望の若者とは違う、
一見愚鈍に見える雲水たちを大変気に入ったようであった。
漱石は神戸に帰って行った雲水たちに、
次のような手紙を書き送っている。――
「貴方がたは私のところに集まって来る人たちよりよほど尊い人たちです。
ありがたい人たちです。」
漱石は自らが理想とする「則天去私」」の生きた具体的な姿を、
雲水たちの一挙手一投足のうちに見いだしていたに違いない。
こういう意味で、漱石自身にとっては言うまでもなく、
その居室「漱石山房」にとっても、
あの雲水たちが最も好ましい佳客であったということになるであろう。
<余禄>漱石は、鎌倉円覚寺で参禅した翌年の明治27年、
次のようなユーモアをふくむ漢詩(絶句)を残しているので、
その部分(下の2句)のみを読み下しで引いておく。
「猶お憐れむ病子多情の意 独り禅床に倚りて美人を夢む」。
坐禅中、初心者なら誰しもいろいろの妄想に襲われるものではある。
参考書:
夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫)、
夏目漱石『門』(新潮文庫)
吉川幸次郎『漱石詩注』(岩波新書)
猫塚(漱石公園)