森本孝治の日記(7/25)

 

森本孝治(若き森本省念老師)

 

禅塾の書庫から、

森本省念(俗名、孝治)老師の若き頃の短歌日記2冊が見つかった。

大正8(1919)年と大正9(1920)年のものである。

森本老師30歳、31歳の時の日記ということになる。

 

短歌日記とは、日々の出来事を短歌の形にして

書きとめておく日記のことである。

森本老師については、これまで「理知の人」という印象が強かったが、

この日記を通して、老師が情感の豊かな人でもあったことが知られた。

 

短歌日記の扉(大正8年)

 

森本老師の伝記は、

山田邦男編の『森本省念老師』(燈影舎)に詳しい。

 

森本省念老師〈上〉語録篇 (山田邦男編 燈影撰書)

 

ここでは、その書の巻末に付された「森本省念老師略年譜」と照合しながら、

日記中の短歌を鑑賞することはせず、

禅修行に関係する主要な事柄だけを抜き出して、

若き森本孝治の修道生活の一端を写しだしてみたい。

 

森本はこの年(大正8年)の4月から、

住所を上京区の上善寺(浄土宗の寺院)に移している。

「年譜」では、その理由を、

「住職福原隆成師に就いて浄土宗学を研究するため」としている。

 

しかし日記を見るかぎり、寺での主な仕事は、

畑仕事(苗の植え付け、水やり、草抜き、等)であったようで、

作務を中心とした寺男同然の生活ぶりがうかがえる。

そして時間があれば、坐禅に集注している。

 

そんな中で強烈な印象に与えるのは、

「徹宵坐禅(打坐)」(夜を徹しての坐禅)の四文字である。

 

「8時ヨリ徹宵坐禅、幾度カ挫折セシモ坐続ケタリ。」

「昼、打坐。夜、亦然リ。12時前後1時間程眠リテ後、徹宵打坐。」

「徹宵シテ朝ニ到ル。午前、墓草ヲトル。打坐。」

 

これらの記述によっても、森本の猛烈な修道生活ぶりが見えてくる。

徹宵坐禅は毎日のことではなかったが、

日々の生活の中で「打坐」を欠くことは稀であった。

また、坐禅の場所は上善寺だけではなかった。

相国僧堂に出かけ、雲水たちと坐をともにすることも繰り返された。

 

森本にとって本格的な禅修行の場は相国僧堂であった。

そこでの提唱に熱心に通い、接心にも通参で積極的に参加していた。

「相国寺、本日ヨリ接心。朝、佛光録提唱。夜、僧堂ニテ坐ル。10時半帰寺。」

「本日ヨリ戦闘的態度ニ約スルコトトス。臘八近シ。」

 

森本は禅修行のためには死をも厭わなかった。

なぜなら、その年の日記の最後に

「死後ノ事」六か条を書きとめているからである。

 

こうした死を賭した厳しい修道の生活ではあったが、

その道はそれ以上に峻厳をきわめた。

「朝、相国寺。午後、打坐。夕方、上善寺ニ帰ル。夜、相国寺。公案未透。行きつまり也。」

 

そして、その都度、森本は自分に鞭打ち己を鼓舞し続けるのである。

「願心薄キ嫌イアリ。大努力ヲ要ス。」

 

だが、1週間参籠した大正8年の臘八大接心であったが、初関突破は叶わなかった。

「吾一人未透。雲水連中ハ夫レゾレ小所悟アリシ。吾一人未徹透。」

 

そこで森本は思い切って、友人を誘って、

四国八十八カ所巡りの旅に出かける。

「年譜」はその間の事情をこう説明している。

「初関(隻手音声の公案)が何としても透らないので、

苦悶の果てに知人と連れ立って四国八十八ヵ所を遍路する。」

 

大正8年12月22日から翌年の1月7日まで、

日記はその遍路の様子を伝えている。

 

年が明けた大正9年、

森本にとって大きな出来事が二つ起っている。

一つは父の死である。

 

この年の初めから容体が思わしくなくなった、

父専助が6月16日に亡くなっている(享年71歳)。

その間、森本は父を見舞うために、

京阪電車で京都と実家のある大阪の間を

頻繁に行き来している様子がわかる。

 

「狂ホシキ御声ニオビエ立居セバ畳ノ色ノ青キモ悲シ」

(新築の家に引越して間もない2月2日、父見舞いの時の歌)

 

この年に起ったもう一つの大きな出来事は、

10月10日に、相国寺の師家であった橋本独山老師が病気のために引退し、

その後を山崎大耕老師が継いだことである

そして注目すべきことは、

それを機にして、日記には「入室」参禅の記録が急に増え出してきていることである。

 

日記には、11月15日、25日、12月6日、14日から始まる

相国寺の大接心にすべて参加、その間それぞれ一週間の間ずつ、

僧堂に詰めていたことが記されている。

その甲斐あって、森本はついに初関を打ち抜くことに成功するのである。

 

「年譜」を見ると、この年、

「刻苦精励の挙句に、隻手音声の初関を無為室大耕老師の室内にて透過する」とある。

日記には、そのことを思わせるような記入は見いだせなかったのであるが、

それは、おそらく12月14日の臘八大接心での事であったと推測される。

 

日記にはこの他、

恩師の西田幾多郎や京大同期の久松真一に関するもの等、

いろいろとそれまで知られていなかった

若き森本老師の側面を髣髴させる記述があるのであるが、

残念ながら割愛せざるを得ない。

 

最後に、そのころ森本が読んでいた本を列挙しておこう。

碧眼録、無量寿経、良寛歌集、大学、中庸、ジンメルの哲学書(ドイツ語)、

寒山詩、荘子、万葉集、易学講義総論、など(大正8年)。

論語、碧眼録、藤村「新生」、小泉八雲「日本の微笑」、

原人論、倶舎論、スミス「大代数学」、ホワイトヘッド「形而上学入門」(英語)、など(大正9年)。

 

ラン(禅堂近辺)