「所さん!大変ですよ」(9/19)
木槿(ムクゲ)の花(禅塾の庭)
私は毎朝、参禅を聞き終ると、外掃除に出る。
いつも大体、5時50分頃である。
寒い冬が終わり、桜の花が咲き始めたある朝、
私がいつものように路上を掃いていると、
その傍を散歩しながら、通りすぎて行かれる老齢の婦人が、
孟浩然の「春暁」の詩を口ずさんでおられるのに気がついた。
春眠 暁を覚えず
処処 啼鳥を聞く
夜来 風雨の声
花落つること 知んぬ多少ぞ
その詩全体を、よどみなく詠われるので、
私は掃除の手をしばらく休め、うっとりして聞いていた。
高齢の婦人でそのように孟浩然の漢詩を
すらすら諳んじることのできる人はそう多くない、
きっと昔、国語の先生か何かをしていた人に違いないと思い、尋ねてみた。
しかし、そうではなかった。
学校で無理に(?)覚えさせられ、
今になっても諳んじることができるのだという返答だった。
寝坊した生徒が遅刻してくると、
「『春眠 暁を覚えず』と言って、先生に言いわけするのよ」
というようなことも、ついでに教えていただいた。
前置きが長くなってしまった。
こんなことを言いだしたのは、
「高校の国語でこれから、文学が選択科目になる」、
「新指導要領に沿った試験問題例には、実用文として
行政のガイドラインや駐車場の契約書が出てくる」
という新聞記事で読んだからだ(8/17、朝日、天声人語)。
いつも思うのであるけれども、
どうして文科省のエライさん方はいつも、
こうトンチンカンなことを考えるのだろうか。
その記事の中で、
「教科書で出会わなかったら一生出会えない、そんな文学がある」
という、小説家小川洋子さんの意見が紹介されていたが、
まったく同感である。
あの老齢の婦人が朝の散歩の途中、
春の気配に触れて孟浩然の詩を口ずさむことができたのは、
彼女が幼い頃に学校の教科書を通じて、それを知ったからである。
そして、そのことが彼女の今の生活をどれだけ豊かにしていることか。
私などもこのブログで時々、文学作品に言い及ぶことがあるが、
それらも大抵、学校の教科書で習ったものが多い。
そして、それらはやはり私の生活に何がしか
潤いを与えてくれているのは間違いない。
そこで言いたい、
改めるべきは学習指導要領でなく、官僚採用指導要領の方ではないか、と。
以上、大雲の「所さん!大変ですよ」でした。
「国際化唱えるならばわが国の文学ちゃんと教えてください」(相良 たま、朝日歌壇)