高橋新吉の詩「留守」について(10/24)
隠寮裏庭に咲いた白萩の花
「白萩のさゆらぐ庭の雨の寺 ひとつ雫は糸ひきて落つ」安立文子
留守と言え
ここには誰も居らぬと言え
五億年経ったら帰って来る
高橋新吉(1901-1987)の、この「留守」と題された詩を評して、
俳人の永井耕衣(1900-1997)は、
「めんどうな三行詩」だ、と言ったそうである。
それは、「考えることがいっぱいある」という意味だ。
わたしがこの詩を知ったのは随分前のことであるが、
たまたま今回、城山三郎が書いた耕衣の伝記小説『部長の大晩年』を読んでいて、
耕衣が高橋のその詩を絶賛している箇所に出会い、
久しく忘れていた高橋新吉の名と、
その「留守」という詩のことを思い出したのである。
この詩には禅的なインパクトが感ぜられる。
禅機(無心の境地から発せられる気迫)というヤツである。
高橋には老師について行う禅修行の実体験があった。
耕衣は修行を実際にしたわけではないが、禅には並々ならぬ関心を寄せていた。
しかし、
この詩の禅的インパクトはどこから来るのか、
そのことを少し考えてみた。
思うに、その詩の生命、インパクトの根源は第一行目から来る。
この意味では、二行目以下は、
いわばそのための修辞句にすぎないと言えそうだ。
「留守と言え」。
その詩は、何の理由も言わずに、行き成り、
面会を拒絶する強い否定の言葉で始まる。
その直截なるところ、しかも命令形になっているところが
否定の絶対性を表現している。
否定するときは徹底的に否定する、
肯定するときは徹底肯定する、
この徹底性・絶対性は禅の特色である。
この絶対的な否定性は、
絶対的なのだから相対的な否定、
つまり、肯定に対して言われるような否定をも否定するのであり、
この意味で通常の肯定否定の世界を超脱している。
このように相対の世界を超脱したところを
仏教では「空」とか「無」という。
「留守」という詩の底には「無」が響いている。
そして、それが詩的空間全体を支配している。
その点で、詩中の語句にも注意してみる必要がある。
「留守」と「五億年」の両語が
「無」を暗喩しているように思えるからである。
「留守」が「無人」を、
「五億年」は「無限の年限」を意味している。
高橋新吉の「留守」の詩に
禅機が感じられるのは、
以上のような理由による。
わたしはそう考えるのである。