自己を超えるもの(11/28)
山茶花(禅塾通用門垣根)
あなたがたのうち、
だれが思いわずらうからとて
自分の寿命を
わずかでも延ばすことができようか。(『新約聖書』マタイ伝7-27)
私たちは
私たち自身の生命を
自らの力によって
一分一秒たりとも引き延ばすことはできません。
つまり、
私たちは
自らの生と死の支配者ではないということです。
換言しますと、
わたしたちを超えたもの
――それを天と言ったり、神と言ったり、仏と言います――
それが私たちの生死の主であるということです。
そこで道元禅師は、
この生死はすなはち仏の御いのちなり(『正法眼蔵』生死の巻)
と、いっています。
たとえて言いますと、
私たちの生死の国は
私たちを超えたものによって
すっかり支配されているのです。
それにもかかわらず依然として私たちが
自分がその国の主人のように考えているのは、
まったくの思い違いにほかなりません。
というより、むしろ傲慢と言うべきでしょう。
しかし、なぜ私たちはそのことを
率直に認めようとしないのでしょうか。
いや、頭では認めもするでしょう。
が、心の底ではそうではなく、かたくなに拒否しつづけているのです。
なぜでしょうか。
仏教はそこに「我(が)」という要塞が存在すると想定します。
この要塞は思いのほか頑強なのです。
禅修行とは「我」というその強固な砦を粉砕せんとする努力にほかなりません。
来週からいよいよ臘八大摂心が始まります。
この行を通して、あの頑強な要塞の一角に、
せめて一筋のひびでも入れてもらいたいものです。