平気で生きるということ(12/23)

 

正岡子規

 

悟りという事は

如何なる場合にも

平気で死ぬる事かと

思っていたのは間違いで、

 

悟りという事は

如何なる場合にも

平気で生きて居ることであった。

 

正岡子規が病床から放った言葉である(『病牀六尺』)。

 

子規はこの時、

結核性カリエスの激痛に悩まされていた。

文字通り、七転八倒する生活の中にあった。

平気で過ごせるわけはないのである。

 

そこで子規は「悟り」が必要だと考えたのである。

 

禅の悟りとは、

常に平気(平常心)でいることである。

生の時も死の時も。

 

子規が「思い違いをしていた」というのは、

かれの生を襲ったその時の病苦が尋常でなかったからである。

病気による激痛がかれを圧倒していたのである。

 

子規は記している。

因みに問う。狗子に佛性有りや。曰く、苦。

又問う。祖師西来の意は奈何。曰、苦。

又問う。・・・・・・・・。曰、苦・

「狗子佛性」「祖師西来意」について、いまは触れない。

 

兎に角、子規は苦しかったのである。

苦しくて、のた打ち回っていたのである。

 

禅仏教は釈迦以来、

苦を根本の問題としてきた。

そしてたどり着いた解決法が

三昧ということであった。

 

苦に成りきる(三昧)、

別の言い方をすれば、

一所に全生命を投入する(一所懸命)、

こうして苦を忘れる。

 

これが仏教の提示する

すべての苦しみから

われわれを解放する方法である。

 

「平気で生きて居るために」

知ってか知らずに(多分、知らずに)

子規はその方法を採り入れていた。

 

病床にあって、毎日、俳句や短歌のほかに、

絵を描いたり、

訪問者のこと、食事や病状のことを

子細に記録することに一所懸命になった。

(子規の『仰臥漫録』を見よ)

 

これが子規の工夫した、

病苦からの解脱方法であった。

 

禅そのものとは違うが、禅的ではあった。