「あるがままをあるがままに」(令和2年1月15日)
仏の眼(仏像・長岡禅塾所蔵)
近 都世(ちか・とよ)という人の
『女人参禅記』という本を読んでいたら
次のような話が出ていて目に留まった。
その話をここに紹介しておこう。
近夫人が足利紫山老師(方広寺第三代管長、1859-1959)に
参禅していた折り、老師から「仏の眼を見てくるよう」に言われ、
早速、寺の本堂に安置されていた仏像を正面から仰いでみた。
本堂から戻って、夫人が「慈悲深いお眼でした」と言うと、
老師、「届かん。見直してこい!」、との返答。
夫人、本堂にかえり再び仏像を拝見し、
今一度、答えていわく、「あたたかく寂(しず)かな」と。
老師いわく、「白雲万里(遠く届かぬの意)」。
「深く澄み透った」
「瞑想そのもの」
「悟りすました」
・・・
いろいろ答えを試みてみたが、すべてダメ。
その日はそのまま日が暮れてしまった。
翌日、再挑戦。
しかし前日と同じで、一向に老師の許しが出ない。
ついに答えに窮するにいたる。
老師、いわく、「お前は、きれいな言葉を、たんと知ってるのう。
小坊(夫人の三男、9歳)は何というかな、聞いてごらん」。
そこで子供を連れて仏像の前へ。
どんな眼か聞いてみると、
子供は即座に、「細長いなあ、仏さまの眼」と。
「なあんだ。つまらない」
「もっと別のこと言ってごらん」
と、夫人がせっついたが、
子供は、「僕、わかんない」と言うばかり。
仕方なく、子供をつれて子供の答えをそのまま老師に呈してみる。
すると、老師、「おお、そうだったか、よしよし」。
「こんなになーがいお眼だったなあ・・・小坊」と言いながら、
自分の眼を両手の指でスッートと耳の辺りまで引きつつ呵呵大笑されたとか。
話はこれだけだのだが、
この話を私たちは笑って済ますわけには行かないと思うのである。
幼い子供は正直である。
あるがままをあるがままに見て、
そのままを言葉で言い表すことができる。
これに対して、
大人はあるがままをあるがままに見ることができず、
ああじゃ、こうじゃと格好をつけたがる。
何という汚濁した心! 何という不真実!
幼い子供のような正直な心を、
仏教では「無心」「平常心」「仏心」といろいろに言う。
そしてそのような飾らない心を習得せんとするのが、
ほかでもない禅修行というものなのである。
足利紫山老師の「仏の眼を見てこい」は、
実は「仏心」に目覚めさせるための、
近夫人に与えられた公案(禅修行者のための問題)だったのだ。
*近都世『女人参禅記』(木耳社、1979年)、94~96頁を参照。