小鳥の説法(令和2年3月11日)
3月5日は暦の上で「啓蟄(けいちつ)」となっている。
冬ごもりしていた虫たちが
一斉に土の中から出てくる季節の到来を意味する。
その頃になると、
虫を捕食するための小鳥たちの囀りも
一段とかまびすしくなってくるのである。
長岡禅塾の一室に、
アシジのフランシスコ(1181~1226)が
小鳥に説法している写真が額にいれて飾ってある。
小鳥に説法するアシジのフランシスの画
だれがいつ、どういうわけで飾ったのか、
今となっては、そういうことは一切わからない。
ただ、先師浅井義宣老師が昔その部屋を使っておられた
という話を聞いたことがあるので、
もしかしたら義宣老師が飾られたものかもしれない。
ところでアシジのフランシスコについてであるが、
イタリア生まれのこのキリスト教の聖者は、
日本では明治以降に、
とくに知識人たちの間で注目されるようになった。
その理由として、
フランシスコの徹底した清貧の生活がある。
その点は日本人好みの清らかさ、
或いはまた、禅宗の無一物の生活にも通じていて、
こういったことが日本人に親しみを覚えさせたのであろう。
(ちなみにアメリカ西部の大都市サンフランシスコはこの聖人の名に由来する。)
この聖者の事績として有名なものに、
禅塾に飾られている写真に示されているような、
小鳥への説法がある。
フランシスコが小鳥たちに
創造主である神に感謝と賛美を捧げるよう説いたという話である。
このフランシスコによる小鳥への説法に関して、
かつて義宣老師が、
アシジのフランシスコは小鳥に説法したそうだが、
禅では小鳥が説法する、と言われたことがあった。
これは大変面白い指摘だと思う。
小鳥が説法する
では小鳥はどのように説法するというのであろうか。
答えは簡単である。
すなわち、スズメが「チュン、チュン」と鳴くとき、
スズメは私たちに対して、
邪念なしに、ただ「チュン、チュン」と聴けと説法しているのである。
事・物に成りきり、そのものと一つになること、
すなわち、三昧(禅定)こそが真実への道だからである。
詳論は省略するが、
キリスト教ではこういう風に行かないのではないかと思う。
そこには天地創造の時に人間を全生物の支配者たらしめた考え方が
根本にあるように思えるのであるが、どうであろうか。(創世記第1章を参照)
蘇東坡が「渓声は広長舌(釈迦の説法)である」
(渓声便是広舌長舌)と詠っているように、
谷川の音すら釈迦の説法として聴いていこうとするのが仏法なのである。
禅塾の庭では
今日も小鳥たちが
盛んに私に説法をしてくれています。
*フランシスコによる小鳥への説法について、以下を参照。
・『聖フランシスコの小さき花』(講談社、1986.)77~78頁。
・J.J.ヨルゲンセン『アシジの聖フランシスコ』(講談社、1977.)170~172頁。
(いずれも永野藤夫訳)