私と『論語』(令和2年4月1日)

 

最近、といっても昨年暮れのことだが、

面白い『論語』の本に出合った。

そこでまず、『論語』と私との付き合いについて少し話してみたい。

 

私と『論語』とのお付き合いは

私の大学時代に始まった。

 

そのことを示しているのは、

いま私の手元にある岩波文庫版の『論語』(金谷修訳)である。

 

1964年発行の『論語』

 

その奥付を見てみると、発行が昭和39年となっている。

西暦になおすと1964年である。

それはちょうど私が大学3年次、21歳の時に当たる。

今から半世紀以上も前のことである。

 

今やその本は紙の色は茶色に変色し、

さくくなりボロボロになっているけれども、

現在でも新版に買い替えることなく愛用している。

 

以来、各種の『論語』(現代訳)を買い求めてきた。

最近では子安宣邦の労作『仁斎 論語』(『論語古義』の現代訳と評釈)

(ぺりかん社、2017)を読んだ。

 

ところが、どの『論語』を見てみても、

これまで、正直言って、

どこかしっくりこないところがあった。

 

どうして、そういうことになるのかと言えば、

言うまでもないことであるが、

『論語』は2500年前の中国という、

日本に住む現代の私たちとは

まったく異なる思想風土の中で語られた言説である。

 

したがってその語の意味は一応分かったとしても、

その言葉の語られている時代状況が分からないから、

結局、文意は抽象的となり具体性を欠くことになるのである。

「どこかしっくりこない」のは、そのためなのである。

 

そんな中、昨年の暮れに、ある書店で、

高橋源一郎『一億三千万人のための『論語』教室』(河出新書、2019)

という本に偶然出会った。

この『論語』が実に面白いのである。

 

理由は、『論語』の語られた状況を、

現在私たちの生きている日本の状況に置き換えて、

『論語』を翻訳しているからである。

この本のお陰で私は『論語』をいっそう身近に感じることができるようになった。

 

そういうわけで、

これから『論語』を読んでみようと考えている人には

是非、高橋論語をお勧めしたいと思うのである。

 

そして出来たら、高橋論語が参考にしている

宮崎市定の『論語』現代訳(岩波現代文庫)を

ときどき参照するようにすれば、もっとよい。

 

ここでついでに、

長岡禅塾においても『論語』が

大切にされてきたことを付け加えておきたい。

 

『論語』を「宇宙第一の書」と評したのは

江戸時代の儒学者伊藤仁斎であったが、

禅塾第二世の森本省念老師もまた

仁斎と同様に『論語』を高く評価されていたと聞いている。

 

その影響を受けて三世浅井義宣老師も

やがて『論語』に親しまれるようになり、

ある時期には自ら『論語』を用いて提唱されたこともあった。

『論語と禅』(春秋社、1988)はその成果を示すものである。

この書は韓国語に翻訳されている。