禅と論語 令和2年4月8日)

 

孔子

 

禅は仏教がインドから中国に入ってから盛んになった関係で、

儒教や道教といった中国思想の影響を多分に受けています。

 

そういうことは、主な禅語を集めた『禅林句集』の中に、

孔子や孟子、老子や荘子の言葉が採取されていることからも判明します。

なかでも孔子の『論語』から比較的多くの言葉が採られています。

 

そのような場合、中国古典から採られた言葉は、

ふつう解されている儒教や道教的な意味を離れて、

禅的な意味で理解されます。例を挙げてみます。

 

サクラ(禅塾)

 

「君君、臣臣、父父、子子」。(論語、顔淵編)

 

これは通常、「君、君たり、臣、臣たり、父、父たり、子、子たり」と読まれています。

斉の景公が孔子に政治のことをたずねた時に、孔子が答えた言葉です。

君は君のように、臣は臣のように、父は父のように、子は子のようにして、

おのれの本分を果たせという儒教の教えを説いています。

 

孔子のこの教えはこれで十分のようにも思えます。

けれども「おのれの本分を果たす」、その「果たし方」が問題となります。

具体的にいいますと、それに二つのやり方があります。

私利私欲を交えて果たす場合と、いっさい私利私欲なく果たす場合と。

 

孔子は断然、後者の意味で言ったのだと、禅では理解したいのです。

なぜなら、禅は無の立場、無私無欲の立場を標榜するからです。

これは孔子の言葉を無という洗剤で漂白したとでも言えましょうか。

上の論語の言葉は『禅林句集』においては、そのように理解されねばなりません。

 

シャガ(禅塾)

 

蛇足かもしれませんが、

上で例に挙げた論語の言葉について、

宮崎市定により、従来の訳に代わって新しい読み方が提唱されました。

(『論語の新しい読み方』岩波現代文庫、113頁以下を参照)。

 

そこでは次のように読んでいます。

 

「君を君とし、臣を臣とし、父を父とし、子を子とす」。

そして、その部分は、「臣は君を君として仕え、君は臣を臣として扱い、

子は父を父として仕え、父は子を子として扱うのが、

政治の本体です」と訳されています。(宮崎市定訳『論語』岩波現代文庫)

 

そこでは、「君は君のように」おのれの本分を果たすということが、

家臣との関係に限定された意味に理解されていると言えましょう。

以下、家臣、それから父・子についても同様のことが言えます。

この場合、従来の訳と宮崎訳のどちらが正しいか、ということは一概には言えません。

 

禅の立場から言えば、かりに宮崎訳を採るにしても、

「仕え方」「扱い方」に私利私欲を交えた場合と、

そうでない場合とを区別することができるわけですから、

そのことは禅にとって本質的な問題ではないということになります。

 

チューリップ(禅塾)