禅と精神分析(令和2年4月15日)
フロイト(Sigmund Freud)
精神分析家の岸田秀は『ものぐさ精神分析』(中公文庫)の中で、
精神分析学の創始者で、無意識の発見者であるフロイトに依りながら、
無意識について、次のように述べている。
無意識においては、時間も空間も存在せず、
「いっさい、矛盾がなく、抑圧がなく、すべては可能である」。
「無意識は否定をしらず、すべては肯定される」。
禅塾の山吹
無意識、すなわち、それは意識の無い情態なのだから、
上の諸特徴は当然と言えば当然なのだが、
そのかぎり禅でいうところの悟りの心境に似ている。
それでは精神分析家のいう無意識が悟りの心意識と同じかと言えば、
そうではない。では、どう違うのか。
岸田は無意識について、さらに次のように述べている。
「無意識は(私的)幻想の巣窟である」。
*幻想は共同幻想と私的幻想に区別され、
共同幻想に成りえない幻想が私的幻想として
各人の無意識にいわば沈殿すると考えられている。
幻想論の詳細については上掲書に譲るが、
世界を「幻想」とする考えは、仏教の世を
「夢幻」とする見方に相似していて興味深い。
禅塾の庭桜
この点を考慮すれば、精神分析学の言う無意識は、
仏教心理学の「アラヤシキ」に相当すると言えよう。
アラヤシキとは、心の深層に想定される無意識で、
煩悩(迷惑)の巣窟と考えられている。
仏教では無意識としてアラヤシキの底に、
悟りの心意識として、さらに「アマラシキ」なるものを想定する。
これは清浄心、仏心とも称されるもので、
三昧(禅定、無心)を修することを通して到達される心の深層である。
白隠禅師はこの辺の消息を、
「八識田中に一刀を下して思慮分別を絶す」と述べている。
(八識とはアラヤシキのこと。八識田と言っているのはアラヤシキの心地の意である)。
フロイドの無意識は、アラヤシキの底を打ち抜いたアマラシキとは明らかに異なるものである。
<余談>この日記を書いている途中に、
かつて私がフロイトについて一文を草したことを思い出した。
それは今から40年以上も前のことであったので、これまですっかり忘れていた。
今回、久しぶりにその文章を読み返し参考にした。
拙論は『思想史の巨人たち』(北樹出版、1979年)に収められている。
禅塾の卜半(月光)椿