A flower is not a flower.(令和2年5月6日)
長岡禅塾つつじ
ある日の新聞紙上で、
英語で記されたこの言葉に出合ったとき、
私は正直、ドキッとした。
なぜかと言えば、
それに類似した言い方が、
金剛般若波羅密経に出てくるからである。
長岡禅塾つつじ
英語で「花は花ではない」と言ったのは、
東京のある中学校の校長先生である。
この言葉によって校長先生は卒業を迎えた中三生に対して、
世界は「これまで通り」の理解では通用しにくくなったことを言いたかったのだろう。
そのために校長先生は、
「本を読みましょう。ただの暇つぶしではなく、
激変するこの世界を、どうやって生きていくのか、
じっくり考えるために」と諭している。(4/5、朝日)
長岡禅塾つつじ
金剛般若波羅密経には「花は花ではない」とパラレルな表現が頻出する。
例えば、「世界は世界ではない(世界非世界)」。
そして、それに続けて、「これを世界と名づける(是名世界)」と断定する。
鈴木大拙は金剛経に特徴的なこうした考え方を
「即非の論理」と呼んで注目した。
長岡禅塾つつじ
「即非の論理」を一般化して言えば、
「AはAではない、これをAと言う」となる。
すなわち、A=非A ∴非A=A。
西田幾多郎はこのような論理を「矛盾的自己同一」と言った。
通常、私たちは「AはAである(花は花である、世界は世界である、等々)」と思っている。
金剛経は、こうした常識をいったん否定しゼロ(無)に戻した時にはじめて、
本当に「AはA」になるのだと教えているのである。
長岡禅塾つつじ
校長先生の「花は花ではない」に戻ろう。
先生の考えでは、「たくさん本を読む」「そして考えてみる」、
そうすれば、本当の花が見えてくるようになる。
そう述べておられるのであろう。
確かにそれも大切なことだ。
しかし、そうして得た知識がまたその人を縛り、
「本当の花」を見ようとする眼を曇らせてしまいはしないか。
そこで、金剛経はさらに一歩進めて、
そうした知識をもいったん払拭し、心をゼロに戻し(無心となって)、
花(あるいは世間)を見るようにしなくてはならない、
そうすれば花は必ずその時に、本当の姿を私たちの眼前に現すであろう、
金剛経はこう教えているのである。
長岡禅塾つつじ