禅塾で飼われていた犬と猫の話(令和2年6月3日)
痴空(ちくう)(1975年)
この5月の連休に、
懸案であった書庫の整理に手をつけてみた。
そんな書籍の中に混じって大判の犬の写真が出てきました。
かつて禅塾で一匹の犬が飼われていて、
森本老師がその犬をつれて近所をよく散歩されていた、
というような話を以前に聞いたことがあります。
(禅塾の小屋には今でも、その犬の立派な犬小屋が残っている)。
犬のその写真を見て、
私はそれが件の犬だということがすぐに分かりました。
名前は「痴空(ちくう)」と言います。
いかにも禅道場の住(人ならぬ)犬に相応しい名前ですね。
多分、茶目っ気ある浅井老師が命名されたのだと思います。
「痴空」とは「底抜けの愚かもの」という意味でしょうが、
仏教の世界ではこれは誉め言葉となります。
真の聖人君子は「愚の如く魯の如し」と言われ、
賢さが目立つようではダメなのです。
禅塾で飼われていた痴空の顔をじっと見ていますと、
どこか「おっとりして」「間抜けた」ようにも見えます。
痴空の写っている写真の裏に次のように記されていました。
「1975(昭和50)年1月6日午前10時、
祖渓尼、大雅新命、前田医師に看取られて安楽死」。
「大雅新命」となっているのは、
当時はまだ森本老師がご存命だったので、浅井老師はそう呼ばれていたのです。
痴空(1975年)
禅塾ではまた猫が飼われていたこともありました。
漱石の猫には名前はありませんでしたが、
禅塾の猫にはちゃんと「未虎(みこ)」と言う立派な名前がついていました。
この名前もまた意味ありげです。
「未虎」(未だ虎にあらず)という言い方は、
禅語の「未徹在」(未だ徹していない、悟っていない)を連想させます。
しかし、この場合、その言葉も誉め言葉になっていると思います。
禅の世界では絶対に真正面から人を褒めたりしません。
一度「けなす」ことによって、却って相手を「持ち上げよう」とします。
これを「抑下托上(よくげのたくじょう)」と言います。
禅の世界では「褒める」ことでも念が入っています。
未虎と名づけられた猫は、
森本老師が外から帰ってこられると、
いつもちゃんと門のところに出てお迎えのできる、
その気働きや、まさに「撃石火の如き」達者であったようで、
さすがの浅井老師もこれには舌を巻いておられました。
もと野良猫の未虎は、行く雲、流れる水のごとく、
いつの間にか禅塾に住み着き、
また人知れず禅塾を去っていったそうです。
今でも隠寮の障子の下板には
その爪跡が残っていて、
往事の面影をしのばせます。