「人生、畢竟如何」(令和2年7月15日)

 

禅塾の木槿(むくげ)

 

人生とは、結局、どういうことなのか?

この問いに臨済義玄禅師ならこう言うでしょう。

 

ただ平常のままでありさえすればよいのだ(秖是平常無事)。

糞を垂れたり小便をしたり(屙屎送尿)、

着物を着たり飯を食ったり(箸衣喫飯)、

疲れたならば横になるだけ(困来即臥)。

 

(なんだ、そんなことなら普段からやっていることだ、と)

愚人は笑うであろうが(愚人笑我)、

(修行をつんで悟った)

智者ならそこが分かるのである(智乃知焉)。(『臨済録』)

 

「なんだ、そんなことなら」と嘯く人は、

臨済の言葉の表面、その字面だけを見て

そのように判断しているのです。

つまりその事柄を外から見ているにすぎません。

 

しかし臨済がそのように言い得るようになるまでには

師匠の黄檗から三度問い三度とも痛棒を食らうような経験があったのです。

 

ですから臨済禅師の言葉を

そう軽々に扱ってはなりません。

血滴々のところを通ってきた達道の人による徹骨の言葉として

深く味わうべきなのです。

 

「人生、畢竟如何」

に対する答えをもう一つ、

ドイツの宗教詩人アンゲルス・シレジウス(Angelus Silesius, 1624-1677)の詩から

引いておきましよう。

 

薔薇はなぜという理由なしに咲いている(Die Rose ist ohne Warum.)。

薔薇はただ咲くべく咲いている(Sie bluehet, weil sie bluehet.)。

薔薇は自分自身を気にしない(Sie achtet nicht ihrer selbst.)。

ひとが見ているかどうかも問題にしない(fragt nicht , ob man sie siehet.)。

(『シレジウス瞑想詩集』)

 

*『臨済録』入矢義高訳、岩波文庫。

*『シレジウス瞑想詩集』植田重雄、加藤智見共訳、岩波文庫。

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