「人のために涼しい木陰となる」(令和2年8月5日)
禅塾の松の大木
梅雨も上がって本格的な猛暑のシーズンに突入しました。
外に出かけた時など余りの暑さに、
ちょっと木陰で一休みしたくなることもあります。
これと同じように、多くの人間が集まった人間社会においても、
息の詰まるような生き苦しさを覚えたような時に、
大きな樹となって自分を守ってくれるような人のもとへ、
走って行きたくなるような気持になることがありませんか。
見出しの語は『臨済録』から採ってあります。
臨済禅師が暇乞いをして師匠の黄檗禅師のもとを去ってゆく際に、
首座の僧が黄檗に臨済について次のように紹介しています。
「(臨済は)将来きっと自らを鍛え上げて一株の大樹となり、
天下の人のために涼しい木陰となるでしょう。」
臨済禅師は実際その言葉の通りに大成されました。
現に臨済宗を奉ずる私たちは皆、
禅師の大樹のもとに参集しているのですから。
これとは別に「涼風人を招く(涼風招人)」という禅語もあります。
暑い時季には山や川辺に涼しい風を求めて人が集まりますが、
これを人間社会のこととして見ればどうなるでしょうか。
世の中に、その人柄を通して「涼風」を私たちの周りに送り届けてくれる人がいます。
それはどういう人かと言えば、
いつも「さわやか」で「すがすがしい」空気を漂わせている人です。
それは「執着心」や「囚われの心」から解放された無欲の人です(例えば良寛禅師)。
修養をつんだ人でなければ、なかなかそんなふうにはなりにくいのですが、
そのようにして、樹となって木陰をつくり、そこから涼風を送ることのできる人を、
真の人格者というのだと思います。