安楽死について(令和2年8月26日)
長岡禅塾の木槿(ムクゲ)
難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)に苦しむ女性患者が安楽死を希望し、
それに応じた医師が薬物を投与して彼女を死にいたらしめた事件で、
その事件にかかわった医師二名が嘱託殺人の罪で起訴されました。
(8/14、朝日新聞)
これを機会に安楽死について少し考えておきたいと思います。
そのためにまず私たち人間の生と死の本質について見ておく必要があります。
私たちの誕生に関してはっきりさせておかなければならないことは、
それが私たち自身の意志によったのではないということです。
また両親の意志によって最終的決定がなされたのでもありません。
そこに何か私たち人間の意志を超えたものがはたらいていた
と言わねばならないのです。
そういう意味で私たちの生命は「賜った生命(いのち)」なのです。
道元禅師は「この生死はすなわち仏の御いのちなり」と言っています。
仏教ではまた「人身受け難し、今すでに受く」と説いて、
今生に生まれてきたことが「有り難い」ことであり、感謝すべきことだとも教えています。
だから「受く」はこの場合、「賜る」の意味でなければなりません。
キリスト教で言えば「神の恵み」ということになるのでしょうか。
ですから、私たちはその「有り難く」「賜った生命」を慈しみ
大切に生きていく必要であるのです。
このことが私たちの生命について考える場合の
根本でなければならないと私は思います。
そこで安楽死についてですが、
安楽死は明らかに上述の点に抵触します。
それゆえ法律上でもきびしく禁じられています。
それは安楽死が「賜った尊い生命」を冒涜する行為だからだと思います。
しかし、わが国では次のような幾つかの条件がそろっている場合に限って、
安楽死を認めるという判決が出されています。(横浜裁判、平成7年)
①患者が耐え難い激しい肉体的苦痛に苦しんでいること。
②患者は死が避けられず、その死期が迫っていること。
③患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと。
④生命の短縮を承諾する患者の明示の意志表示のあること。
このような判断は本来、人間が自らを超えたもの
(仮にこれを神と言ったり仏と言ったりします)
の領域に踏み込んだ越権行為になります。
そうではあるのですが、
上のような条件がそろっている場合の安楽死について、
私自身は強いて反対しようとは思いません。
それは言われている肉体的苦痛が甚大であると想像されるからです。
しかしそんな場合でも、
やはり私たちの生命が「賜った生命」であることを銘記して、
私たちの生命の主宰者(神仏)に赦しを請うというような敬虔な気持ちを
最後まで持ち続けることが大切だと思います。