加賀の千代女(ちよじょ)のこと(令和2年9月16日)
朝顔
どうしたことがキッカケだったか忘れましたが、
加賀の千代女と呼ばれる女性のことが気になっていました。
千代女のことは
「朝顔に つるべ取られて もらい水」
の句の作者として紹介されている文章を以前に何度か目にしたことがあるだけで、
それ以上のことは何も知りませんでした。
最初にその名前を知ったのは
鈴木大拙の『禅と日本文化』を通してだったのではないかと思います。
調べてみるとその本の第七章「禅と俳句」で
芭蕉の「古池や蛙とび込む水の音」などと並んで
千代女の上掲の句が採り上げられています。
以下に記すのは千代女に関する私の覚書のようなものです。
参考のために読んだ本はつぎの3冊です。
①西山郷史『妙好人 千代尼』(法蔵館、2018)
②山根公『加賀の千代女 五百句』(桂書房、2006)
③清水昭三『花の俳人 加賀の千代女』(アルファベータブックス、2017)
この中でもとくに①にいろいろと教えられました。その本を通じて、
千代女がのちに尼僧千代尼になっていたことも初めて知りました。
千代女は元禄16年(1703)、
加賀の松任(石川県白山市)の表具屋の娘として生まれ、
その町で育ちました。
松任は北国街道に面した宿場町で金沢の近くでしたので、
千代女の家には表装依頼の文化人などの出入りも多かったようです。
そういう影響もあってか千代女は幼いころから俳句に興味をもちだし、
17歳の時に蕉風10哲のひとり各務支考(かがみしこう)に
その才覚が認められてからは
俳諧の世界で広くその名が知られるようになっていきました。
句集に『千代尼句集』(1764)、『はいかい松の声』(1771)、
『自選俳句帖』(1768)の3冊があり、
そこに計958の句が集められています。
そのほかのものも合せると計千六百余句になるそうです。
その中からよく知られている句をいくつか書き出しておきたいと思います。
〇「蜻蛉(とんぼ)釣り 今日はどこまで 行ったやら」
早く夫を亡くしていた千代女に弥市という一人息子が残されていました。
しかしこの子も幼少にして亡くなります。
この俳句は今は亡き幼子のことを思いながら作られたものです。
千代女の子を思う母親としての哀切の情が伝わってきます。
この句は「朝顔に」の句とともに広く知られていて、
小林一茶(1763-1827)も自分の子を失った時に「子うしなひて」と前置きして、
千代女のこの句を引いています。(『おらが春』)
また新渡戸稲造(1862-1933)は『武士道』「克己」の章で、
千代女のその句を載せて外国の人たちに向けて説明を施しています。
千代女に同じ趣向の句として
「破る子の なくて障子の 寒さかな」があります。
〇「髪を結ふ 手の隙(ひま)明て 炬燵哉」
千代女は芙蓉の花を思わせるような美しい女性であったようです。
けれども再婚することはありませんでした。
夫との死別の後は句作と仏法聴聞に明け暮れる毎日でした。
52歳の時に千代女は剃髪して仏門に入り、
浄土真宗の尼僧となって法名の素園を名乗るようになります。
北陸地方は蓮如上人のその地への巡錫(1471)以降、
加賀門徒の名でも知られるように真宗の盛んな地です。
出家の動機はそれまでに多くの人の死を見てきたことにもよるのでしょうか、
この世の諸行が無常であるとの思いが強くなったからだったようです。
上の句は髪を剃って髪を結う手が空いて、
その手を炬燵の中で温めることのできる自由さを詠いつつ、
出家することによって得られた、
それまでのすべての憂いから解放された伸び伸びした気持ちが表現されています。
阿弥陀仏に任せきった千代尼の俳句に
「ともかくも 風にまかせて かれ尾花」があります。
このほかにも法味のある句がたくさんありますが、
それらの解説は①にゆずりたいと思います。
〇「蝶は夢の 名残(なごり)わけ入(る)花野哉(かな)」
この句は死の前年、病床での作だそうです。
このとき千代尼は蝶となって花野を飛び交っています。
千代尼は「花の俳人」と称されているように多くの花を愛でてきました。
いま身は病の床にありますが、まだまだ俳諧の世界で花と戯れてみたいのです。
これは千代尼の直筆最後の句とされていますが、
辞世の句とはされていません。
しかし句作の時期といい句意から見てみて、
私にはこの句を千代尼の辞世の句としたいという勝手な気持ちが強くあります。
私がそう思うのは、
芭蕉の辞世句「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」と
並べて考えているからかもしれませんが。
千代尼は安永4年(1775)に74年の生涯を終えます。
辞世の句は「月も見て 我はこの世を かしく哉」でした。
「かしく哉」は「あがめ敬うべきだ」の意味で、
ここでは「もったいない」「有り難い」となるでしょう。
〇「朝顔や つるべ取られて もらい水」
千代尼は「朝顔に」の句の初5字を後に「朝顔や」と改めています。
その理由と考えられることは、
「朝顔に」のままですと、句全体がやや説明的となり、
その句が平板に解釈されるおそれがあります。
しかし千代尼の本意は最初からそこにはなかったのでしょう。
その句の眼目は朝顔の美にあったのではないかと思います。
そこで「朝顔や」と切れ字を挟むことで、
朝顔の存在をクローズアップし、
そうすることで句の焦点をはっきり朝顔の美に絞り込んだのだと思います。
私の目には朝顔の美しさに打たれ、
うっとりして立っている
千代尼の姿が浮かび上がってきます。