「参禅の心得」(令和2年10月28日)

 

禅塾のムラサキシキブ

 

禅修行は無心になるための行(ぎょう)なのですが、

臨済宗ではそのために公案というものを使用します。

公案に対する自分の見解(けんげ)を

師家の室に入って呈することを参禅といいます。

 

公案とは無心になっているのでなければ解けないような問いのことです。

例えば代表的な公案に「片手の音(隻手音声)」があります。

片手そのものの音を普通の耳で聞くことはできません。

 

その音を聞くためには無心となって

片手そのものになりきるより他に方法はないのです。

 

しかし、このことがなかなか難しい。

そのためにこれまで古人がいろいろと忠告を与えてくれているわけですが、

ここでは最近読んだ蘭渓道隆禅師の法語から拾っておくことにします。

 

1.参禅は猫が鼠を捕ることによく似る。まず姿勢を正して目標をまっすぐに見定める。それから肝心なところを狙って、すばやく一口で咬みつく。決して目標を見失わない。学道参禅も同じ。まずよこしまな考えを捨て、心を正し意を誠にする。目はよそを見ず、口は余計なことを言わない。(大雲の注:公案を片時も離してはならないということ)

2.道は自分自身にあり、外を向いて求めても道はあらわれない。外を向いて求めれば、道を明らめることができない。道の本源を体得するのは一朝一夕のことではない。ただひたすら求め、ただひたすら究めればよい。力が到り功が円成すれば、道はおのずからあらわれる。(大雲の注:まず寝ても覚めても公案に集注すること)

3.字句から話頭(公案)を解することはできない。そして、論理から話頭(公案)を解することもできない。

4.言句の上で分別したり、知識を用いて思案したりしてはいけない。(大雲の注:ひたすら公案と一つになるようにすること)

5.われわれ凡夫は、一歩で悟りを手に入れることはできない。浅から深へ、漸から頓へ、一歩、また一歩と、徐々に進んで行かなければならない。

6.参禅する人が最初から悟りなどを念じたら、かならず悪しき見解にとらわれ、修行の道に障碍が出てくる。だから、ただ一生懸命に努力すればよい。悟るだの、悟れないだの、そんなことは考えない。時節因縁が熟せば、あるいは一年三年、あるいは十年五年、成果があらわれるときはおのずから来る。

7.九仞(きゅうじん)の山は力を尽くさなければ築くことはできない。千日の道は努力しなければ行くことはできない。年月をかけて築きつづけていけば、ついに空を摩し雲を凌ぐ勢いをそなえることができる。長い時間をひたすら歩みつづければ、安楽の家に到り着けないことはない。

8.今どきの世人は、多くは口先だけで行動に移らない。始まりはよいが最後までつづかない。もし最後まで努力して怠らなければ、肥前から博多に行くのと同じだ。行けばかならず到る。行かなければ、あるいは途中で止めてしまえば、当然到達することはできない。

9.道は遠くにあるのではない。それを究めるのは人である。ただ恐れるのは、それに専一できないことだ。たとえ向かいあうほど近くても、一途の心がなければ千里よりも遠い。心構えが足りぬ自分に責任があるのに、かえって道が深すぎてたどり着くことができない云々と嘆く。一日信ずれば一歩進み、一日疑えば三舎(三日の行程)退く。こんな参学では百年経っても道に及ばない。

10.釈尊の門戸、佛の道は広く果てしない。達磨は言う。「幽玄深奥であること測るべからず」と。そもそも人は男女をわかたずそれぞれ円明な佛性を具え、誰でも佛になることができる。しかし一念の妄想に遮られているため、佛になる道を求めようとしても道はどこにあるかもわからない。

*蘭渓道隆禅師(1213-1278)、1246年に来日した中国僧、鎌倉建長寺開山。

*蘭渓法語は彭丹訳『蘭渓録』(禅文化研究所、2020)に依った。