慈悲について
慈悲するうちは、慈悲に心あり。
慈悲熟するとき、慈悲を知らず。
慈悲して慈悲しらぬとき、仏というなり。
たとえば火はものを焦がす、水はものを潤す。
火は物をこがすと、その火は知らず、
水は物をうるおすと、その水は知らず。
仏は慈悲して、慈悲をしらず。
至道無難禅師「即心記」
*慈悲している時に、自分はいま慈悲しているのだという意識があれば、それは純粋な慈悲ではありません。意識せず無心に行われる慈悲こそが本当の純粋な慈悲、仏行になるのです。
それはちょうど、火は物をこがして、そのことを知らず、水は物をうるおして、そのことを知らず、おのれに与えられた天真の性質を赴くまま発揮しているのと同じです。自然はどれも天然のままに動いているばかりです。それは純粋行為であり仏の行いと同じです。
*「知らずもっとも親し」。知らずに行うことほど物事にかなったことはありません。
知らずに呼吸していることが健全な呼吸なのであって、そうでない時は呼吸器の異常を心配しなければなりません。慈悲も知らずになされている時が本当の慈悲なのです。
*「無縁の慈悲」。何かのために(何かを縁にして)なされる慈悲はやはり純粋な慈悲ではありません。なぜなら、そこには何か期待しているものが潜んでいるからです。期待しておれば、期待がはずれた時に問題が生じます。したがって何のためでもない、何も期待しない、無縁の慈悲こそが純粋最良の慈悲なのです。