「だまさるな!」(令和2年12月9日)
禅塾のツワブキ
情報過多の現在、そういう軽い情報に流されて毎日を送っていませんか。
そうして掛け替えのない自分の一生を薄っぺらな紙のように浪費していませんか。
大切な宝物である本当の自分を見失っていませんか。
もしそうなら実にもったいないことですね。
仏教の教える、したがってまた禅的な生き方というのは、
そういう流行に押し流された生き方とは正反対なのです。
それをここで紹介しておきましょう。
釈尊は誕生されると、
「天上天下唯我独尊」と獅子吼されたということになっています。
これは伝記作家の創作に違いないでしょうが、
単なる夢物語ではないと思います。
伝記作家は釈尊の生き方の基本をその誕生時に合わせて、
最初に象徴的に示しておきたかのではないでしょうか。
釈尊の生き方の基本とは主体性ということです。
そのことは「唯我独尊(ただ我のみ一人尊し)」という言い方に強く表れています。
ちょっと注意しておきますが、
そこで言われている「我」は「無我」のことです。
現代風の「俺が、俺が」と自己主張する「我(が)」では決してありません。
釈尊は無我として主体的に生きることの尊さを
最期まで主張されました。
遺言として「自灯明・法灯明」という言葉が残されています。
(『ブッダ最後の旅』)
「自灯明」とは自らを灯とし、自らをたよりとして、
決して他に頼ってはならないという主体的な生き方を教えています。
「法灯明」は「法(真実)」のみに依って生きて行けということですが、
仏教において「法」は無我が立法する「心法」ですので、
結局「自灯明」と同じ意味になります。
もちろん釈尊は自らの説法においてもそうした生き方を説かれました。
たとえば、つぎのように。
「自己こそ自己の主なり。自己こそ自己の行きつく所なり。
さらば汝、自己を制せよ。商人の良馬を調教するがごとくに。」
(『ダンマパダ(真理のことば)藤田宏達訳』)
釈尊のそうした考え方を、
力強く鮮明に打ち出しているのが禅であります。
臨済慧玄禅師、いわく、
「人に惑わされてはならない。内においても外においても、
逢ったものはすぐ殺せ(莫受人惑、向裏向外、逢著便殺)」。(『臨済録』
*「殺せ」とは「否定する」「依りかからない」の意です。
また、いわく、
「どこにおいても自らが主人公となれば、
その場その場が真実なのだ(随所作主、立所皆真)」。(同上)
このように独脱した無依の道人こそ臨済の考える、
あるべき人の姿だったのです。
けれども、
そういう大切なことをうっかり忘れがちになるのが人間です。
そこで臨済と同じ唐代の禅僧瑞巌は毎日自らに向かって、
「主人公」と呼びかけ、
「どんな時にも他人に騙されてはならないぞ」と、
注意を喚起していたという話が伝わっています。(『無門関』)
この話を踏まえて、わが国の慈雲尊者(1718-1804)は法語に、
「主人公」と表題して「だまさるな」と大書されました。
それは耳に心地よいだけの他人の言葉にだまされてはならない、
いつも自らの主人公であれ、という有り難いお言葉なのです。