「禅と念仏」(令和2年12月23日)
禅塾の初雪①
今年に入ってから、
少し浄土系の宗教について勉強を始めています。
折しも『森本省念老師の時代』(長岡禅塾同参会)が発行され、
そのなかで幾人かの人が、
「禅と念仏」に関する森本老師の考えに触れられていますので、
それらをここに引用させていただき検討してみたいと思います。
森本老師は次のように言われていたそうです。
「禅者は念仏がわからないといけない」。
「念仏がわからないような禅は本物ではない」。
「真宗のわからない禅坊主は本物じゃない」。
こういった森本老師の考え方について、
禅の側からもしかすると反発があるかもしれません。
禅は禅であればよいのであって、
何もわざわざ真宗や念仏のことに関わる必要なない、と。
このような反対意見に対して、
少し申しますと、
禅は禅でないのが禅であると言われますように、
禅はまったく自由であって、何ものにも縛られることもありせん。
そのように他宗へのかかわりを否定することは、
そういう仕方で禅自らが自分の自由を奪っていることにならないでしょうか。
第一に禅も念仏ももともと釈尊の教えの中から出てきたものですから、
最初は両者はもともと一つであったのであり、
このことを仏教の歴史の中で確認することができます。
禅塾の初雪②
森本老師の場合には、
その他に、「衆生無辺誓願度」(四弘誓願の冒頭句)、
すなわち、すべての衆生を何としても救いたい、
という強い願いがあったように見受けられます。
つぎのように言われています。(一つづきの文を①~④に分節してみました)
①禅では限られた人しか救われない。
②その他の人、特に女性はどうするか?
③それらの人々には念仏を与える。
④念仏がわからないような禅は本物でない。
①について。
この点は禅に限ったことではないと思います。
どの宗教においても真に自分が救われている
と思える人の数は限られているのではないでしょうか。
②について。
禅に関心があるにもかかわらず、救われない人はいます。
理由はいろいろ考えられます。
特に女性の救済が問題になっていますが、
それは肉体を通した修行が禅により多く含まれているからだと思います。
しかし禅で悟りを開いた女性もいますから、
一概に禅が女性に不向きだとは言えないでしょう。
③について。
②までで、何ゆえに禅僧森本老師が念仏を持ち出してこられたのか、
その理由が示されました。
禅で救われない人を救いたい、これが老師に念願だったのです。
事情が以上のようですと、
そこから禅僧に対して、
④のような主張がなされてくることがよく理解できます。
しかし、それでも問題がひとつ残ります。
それでは、なぜ念仏なのか、ということです。
念仏以外ではいけないのか、仏教以外の、たとえばキリスト教ではどうか。
おそらくこの点に関し、原則として森本老師は否定はされないと思います。
(私も否定しません。人は自分に合った宗教を選ぶべきです。)
老師の場合には森本家の宗旨がもともと浄土真宗であったこと、
若いころに浄土宗の寺で過ごされ、浄土系の宗教についても研鑽をつまれたこと等、
老師には念仏についての深い造詣があったことが影響していると考えられます。
森本老師はある時の話に次のように語られたそうです。
「西田幾多郎先生が、もし持参する2冊の本を選べと尋ねられたら、
こうおっしゃいました」。
「『歎異抄』と『臨済録』を選ぶと」。
「深いでっしゃろ」。
「なぜ、先生は『歎異抄』を選ばれたのか? 『臨済録』に加えて」。
「一つ自分の答えを出してください。君、宿題でっせ」。
西田幾多郎は若い頃の禅体験をもとに、
独自の哲学を樹立した大哲学者であり、
森本老師が京大の哲学科在籍以来、
もっとも敬愛した「先生」でした。
その西田が禅の語録『臨済録』とともに親鸞の『歎異抄』を選出したこと、
つまり禅のほかに念仏の本を選んだことに老師はいたく共感されたのでした。
以上、羊頭狗肉のようで少し雑駁な話になりましたが、
「禅と念仏」についての話は今回はここまでにしたいと思います。
さて、今年もまもなく暮れようとしています。
有難いことに森本老師が私にも来年の宿題をくださいました。
禅塾の初雪③