坐禅すれば、優しくなる
坐禅すると対立がなくなる。
反対の立場が理解される。
こちらを離れて、反対の立場そのものになることができる。
愛がわく。
慈悲というか、親和感がわく。
すると、
臨済禅から曹洞禅へと理解がうごく。
禅がその位を離れ念仏が、
その究極の親鸞上人がいただける。
・・・
そのように、
何を聞いても、それを理解し受納し、
いわゆる耳順の徳がただようてくる。
森本省念老師(半頭大雅編『禅 森本省念の世界』)
*理屈抜きに「まず」坐禅を始めてみる。坐禅を始めると、「私」という壁がなくなる。壁がなくなると、どこにでも自由自在に入っていけるようになる。対立するもの、反対するものの心の中にも入っていける。すると、その人の気持が分かるようになる。そこに愛がわき、慈悲の心がおこり、親和の情が満ちてくる。
*このことと同じようなことが諸宗教の間でもおこる。日本の禅宗は大きく臨済宗と曹洞宗に二分される。しかし坐禅をして「私」の壁がなくなれば、臨済宗から曹洞宗へ、また曹洞宗から臨済宗へ、対立を超えた往来が自由にできるようになる。
禅と念仏は自力宗と他力宗に峻別されることがあるが、「私」の壁が坐禅によって除かれれば、禅から念仏へ、念仏から禅への道がおのずから開かれてくるようになる。もっといえば、仏教からキリスト教をはじめとする世界の諸宗教へ、またその逆の道も自然と用意されるようになる。
*人のいうことをすべてそのまま受納することを禅の言葉で「正受(しょうじゅ)」という。
坐禅をして「私」の壁が取り除かれたら「正受」が可能となる。それは論語(為政篇)に出ている「耳順(耳順がう)」である。すなわち、「人の言葉が素直に聞けるようになる」ことである。
*だから、「まず」坐禅を始めてみる。ただし、その坐禅は「本当の」坐禅でなければならない。ただ漫然と坐っているだけでは、たとえ百万年坐ってみても「私」という壁のはがれ落ちることはない。上田閑照先生は「本当に坐れば、人は優しくなる」という言葉を残された(森哲郎「追悼・上田閑照先生」『禅文化』254号)。