禅と念仏(2)— 禅と浄土真宗(令和3年2月10日)

 

キンカン(長岡禅塾)

 

昨年12月23日の大雲日記の終わりに

森本省念老師からいただいた宿題のことを書いておきました。

そこで今年に入って、まず『禅 森本省念の世界』を読み直してみました。

 

再読して驚きました。

なんと浄土真宗や念仏への言及が

その本の随所に見いだせるではありませんか。

前にそのことに気づかなかった自分の迂闊さを深く恥じた次第です。

 

そこでその本によって、(1)禅と浄土真宗の違い、

(2)森本老師における禅と浄土真宗の関係、

の二点に焦点をあわせて要点をまとめておきたいと思います。

 

まず、禅と浄土真宗の違いについてですが、

この点についてはその本の編者である半頭大雅(浅井義宣)老師が、

つぎのように述べておられます(204~209頁)。

 

禅と真宗とは空あるいは無において成立している同一仏法であるのだが、

その理解のしかたに力点の相違がある。

 

どういうことかと言えば、禅は空が「自己に即する」方に力点を置くのに対して、

真宗の方では空が「自己を離れる」方に力点を置いている。

具体的に言うと、禅の方ではよく見性成仏という言葉が使われるように、

自己が即ち仏なのである。

他方、真宗の方では自己というものは凡夫であって、

どこまで行っても仏になれない。

 

以上はしかし、教学の建前上、そうなっているということであって、

よく見てみると、禅の方に空が「自己を離れる」方向が、

また真宗の方に空が「自己に即する」方向がみられるのである。

すなわち相反するように見える禅と真宗において相互に接近する傾向が見られるのである。

 

すなわち、禅宗において修行は一生の修行であって、見性成仏のところに止まれば、

それは断見の外道と言って昔から非難されてきたのである。

また真宗の方に目を向けてみると、

阿弥陀仏の本願を信じて念仏を申せば仏に成れる。

ただし真宗ではここのところを見性成仏とは言わず、

教学上、阿弥陀さんによって救われた、と表現するのである。

それは真宗が「一文不通の輩(一字も知らないもの)」を救うことを

念頭に置いているからである。

 

以上によって、正反対に見える禅と真宗の違いが、

無あるいは空のとらえ方の相違によっていることが少し明らかになったと思います。

それとともに、両者の接点も分かってきます。

 

しかし、その相違や接点は、理論の上からというのではなく、

むしろ行者の体験の上から導き出されたというべきでしょう。

(宗教はすべて生きるという事実の上に成立しています)。

 

そこから、禅を真に生きれば必ず真宗にいたる道が開かれ、

逆に真宗を生きることに徹すれば、必ず禅が見えてくる

ということが期待できそうです。

このことを実践された典型的な一例として、

私たちは森本老師を見て行くことができると思います。

 

*半頭大雅編『禅 森本省念の世界』(春秋社、1984)。

 

*「断見の外道」:無あるいは空にとらわれた見解。

 

*「阿弥陀仏の本願」:阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に、

一切衆生を救うために立てた四十八の根本となる願。

その中で「もしその願が成就しなければ仏になるまい」と誓われた。

 

 

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