禅と念仏(3)— 森本禅(令和3年2月17日)

 

白梅(長岡禅塾)

 

(承前)

つぎに、森本老師における禅と浄土真宗の関係について、見て行きたいと思います。問題はなぜ森本老師において禅が禅の枠をこえて、浄土真宗まで伸びて行ったかということです。

 

この点に関しては、すでに指摘しておいたことですが(昨年12月23日の日記を参照)、森本老師には一切の衆生を済度したいという強い願いがあり(このことが禅修行の最終目的)、その中で特に女性をどう救うかという問題がありました。

 

この問題は、実際問題として、長年寝たきりの自分の母親を、どのようにして究極的な安心に導くか、という形で森本老師の課題となっていました。

 

そういう具体的な課題を前にして、森本老師の考えられたのが、「最も女子に向いた仏教は浄土真宗である」(188)という見方でした。これには、若い頃から浄土系仏教に親炙されていた老師の体験が、参考になっていたと思います。

 

しかし、森本老師において禅が浄土真宗に伸びて行った理由として、もっと注意しなければならないのは、禅修行の途上において老師自身に生じた実存的な問題の方です。老師はつぎのように述べておられます。

 

①「禅なら禅を一生懸命やっておれば、ますます自分の限界が知らされのですわ」(43)。

ここで森本老師は人間の有限性に言及されていることが重要です。

また、次のようにも言われています。

②「悟りを得た人も人間であるのですから、あらゆる点で限界をもっています」(93)。

 

自己の限界を知った覚者は、それではどうすべきでしょうか。彼はもちろん伝統的な方法で禅の修行を一生つづけて行くことになるでしょう。普通はそのようになると思います。

 

しかし森本老師の場合にはそこのところが少し違うのです。①の文につづけて森本老師はこう述べています。

 

「そうすると必ず「発願文」が出て来るのがほんとやと云うのですわ。そこまで行ったらな、善導や法然さまをちゃんといただける。親鸞上人も有難うなる。わしは禅をそう云うところへもって来ますのや。」

 

「発願文」とは本来、浄土系仏教の高僧である善導や法然による浄土往生のための願文ですが、ここでは救済成就の願といった、もっと一般的な意味に解しておきたいと思います。

 

いずれにしましても、そこまできますと、もはや禅は禅でなくなるように見えますが、森本老師はそういうところまで禅を伸ばそうとされたのでした。

 

ここで注意をしておきますが、そのことは禅者が真宗の信者のように念仏を称えるということではありません。そうではなく、それはあくまで理解の上でのこととして話されているのです。森本老師の言葉を引用しておきます。

 

「わたしは念仏禅を肯定しているのではない。念仏禅じゃあなくて、念仏の理解を云いますのや。そこをはっきりしておかんとな。禅僧が念仏に対する理解をもたなかったら、その禅はほんものではないと云うことをわたしは云いたいのですわ。しかしそれは、理解があるからと云って、禅僧が念仏をせいと云うのではないですよ。」(44)

 

以上、森本老師において禅がこれとは正反対のように考えられている浄土真宗の方に伸びて行った理由を考察してみました。そして、その最大の理由として、森本老師における人間としての自己の限界の自覚という点に注意しました。

 

このことを逆に言いますと、禅の悟りに尻を据えた禅天魔には、こうした展開は夢にも見ないことであるでしょう。そうして、そういう立場ではすべての人たちを救いたいという「衆生無辺誓願度」の願文は、空念仏になり終わらざるを得ないことになるでしょう。

 

森本老師の場合には、その点、人間の有限性についての自覚がはっきりしていました。そして、その自覚が自他の究極的な安楽地を求める、「無理会の処(理解のとどかない処)に向って窮め来たり、窮め去る」(大燈国師遺誡)不断の行になっていったのでした。

 

それはもう臨済禅の伝灯の枠をはるかに超えて浄土真宗だけでなく、曹洞禅へ、論語へ、またキリスト教やマルキシズムへと、いろいろのものにまで伸びて行きました。その様子を森本老師は「禅がつぶれて、色々のものに伸びていく」と表現されました(187)。

 

「つぶれる」というのは面白い言い方ですが、「つぶれる」ものは形のあるものです。形のないものはつぶれようがありません。ですから「禅がつぶれる」とは禅が形としてあるということ、換言すれば、少なくとも形通りの公案修行をやり終えた人の場合に、初めて言いうることなのです(たとえば、森本老師のように)。そうでない場合には、つまり、形のでき上っていないのもが「つぶれる」ことになれば、それは得体の知れない「ごっちゃまぜ」のものになってしまいますので、その点にも注意が必要です。

 

このように森本老師の禅は、あくまでも禅の立場に立ちながら、しかもそこからすべてを、その中に包みこんでゆこうとする、したがって、伝灯の枠にはとても納まりきらない「大きな禅」(190)であることがその特色となります。

 

森本老師の禅はそういう特別のものでしたので、私はそれをあえて「森本禅」と呼びたいと考えるのです。

 

*カッコ内の数字は『禅 森本省念の世界』の頁数を示す。