一隅を照らす、これ国宝なり

 

紅梅(長岡公園)

 

国宝とは何であるか。

宝とは道を求める心なり。

道心ある人を

名づけて国宝となす。

 

故に古人いわく、

径寸十枚、これ国宝にあらず。

一隅を照らす、

これ国宝なり

伝教大師最澄「山家学生式」

 

*「道」とは仏道のことである。「仏道」は、ここでは、「一隅を照らす」こととして例示されている。「一隅を照らす」というのは、各人がその時、その所において、「我を忘れ(無我となって)」与えられた仕事に全力を集注することである。わたしが好んで使う言葉だと「一所懸命」(今、自分のいる場所に命をかける)ということになる。比叡山の千日回峰行者、横山照泰阿闍梨は、これを「ポストにベスト」(「ポスト」は「自分に与えられた場所、持ち場」の意)と翻訳している。現代にマッチした大変上手い言い換えだと思う。

 

そういう三昧になった人の姿は、まるで光を放っているかのように輝いて見える。

 

ところで「一隅を照らす」ことが、どうして「国宝」に値するのか。一人の人間が自分の今ここに集注し、三昧に入っていることが、どうして国の宝に相当するのだろうか。たしかに一人の人間の業など、そこだけを見れば知れたことに違いない。しかし、その人の三昧の輝きが他を照らし、他がその光をうけて、自ら輝き始め、このことが順に拡がっていけば、どういうことになるだろうか。「一燈照国 万燈照国」(一燈国を照らせば、万燈国を照らす)ということが言われるように、そのたった一燈の小さな輝きの光が、やがて無尽の灯の光となって国中、いや世界中を照らすことになるのではないか。真の世界平和がもし達成できるとするならば、それはそのように各人が「一隅を照らす」ことに徹することによってのみ可能になると私も信じる。

 

だから、本当の「国宝」は「径寸十枚(直径一寸の玉十個)」に代表されるような、いわゆる国の宝「物」のことをいうのではなく、「一隅を照らす」人の道「心」に存するのだと言われているのである。