“わたしの森本語録”より(令和3年4月21日)

 

牡丹(長岡禅塾)

 

〇 僧堂の生活は、忍辱的生活、作務労働、陰徳を積むこと、祈りと感謝の生活、参禅弁道がその特徴である。これを雲水に要求するためには老師が身を以ってその例を示すのである。(16)

 

〇 一燈園の西田天香さんの言葉、「禅の坊さんは法衣をぬぎ、幼稚園の小使いさんを三年以上やれ、・・・次に神経科病院の看護婦長下の小使を三年以上つとめよ。・・・次に精神科医院の小使をつとめること。・・・禅坊さんはもっと下におりてきて、病める人の味方になって欲しい。」私はこれには返す言葉もありません。(35~37)

 

〇 僧堂での修行が一通りすんでも、この修行は止ることがない、そこで法を知る者はおそる、恥を知るということになり・・・先人の残して置かれた発願文が僧堂雲水のためのものではなく、八十の老僧[つまり自分]のためのものとなる。(60)

 

〇 妻帯の禅僧に。妻帯するなら親鸞上人まで下って欲しい。妻君もたすかる法、五濁に喘ぐ人々と一緒に乗って行く法を親鸞の言葉を使わずに、君自らの言行でもって説かれんことを妻帯禅僧に御願申すのでござる。(63)

 

〇 もしその人が[自分を]別格の人間であると思うようであれば、悟りを得た人とは言えません。悟りを得た人も人間であるのですから、あらゆる点で限界をもっています。もしその人がこれらの限界を知るならば、その人はその人自身の方法で人々を救い、他人と一緒に禅の修行の道を歩みたいと願うでしょう。その人の修行はいまや、いかにして他人を救うかということにあるのです。そしてその修行が際限なく続くのです。仏教徒ならだれでもが知っている一つの誓願があります。それは「衆生無辺誓願度」という誓願です。初めのうちはそれはたんなるきまり文句として受け取られるにすぎません。しかしそれがその人自身の誓願になるとき、その人はその誓願と一つに生きねばなりません。そのことがいまやその人の修行になるのです。(93)

 

〇 どんな人にも法が説けるためには、・・・考えられる限りの社会科学や自然科学や哲学を学んでおかねばなりません。(96)

 

〇 悟りは始まりにすぎません。本当の禅の生活はそこから始まるのです。・・・禅修行の最終目的は、すべての人を救済するという誓願、けっして成就されず、けっして報われず、決して応えられることのない誓願です。(99)

 

〇 「陰徳」「和光同塵」のすすめ。尊敬されるということは、仏教の立場から言えばよくない。人を羨ましがらせるというのはよくない。なるべく自分の徳というものを隠すように、人に褒めらないようにしなくてはならない。(153)

 

[寺の小僧さんと一緒に生活していて]小僧さん達にうらやましがられるような生活するのは罪やな。それで私考えましてん、小僧さんをもりたてないかん思うてな、小僧さんのいやがることを、こっちでやって、引きたてるように、引きたてるようにしてやりまんねん。(『森本省念老師、上』燈影選書、17頁)

 

〇 ダーウィンのような科学者でも、ミミズを二十年も研究していたんでっせ。法の人はもっともっと参究せにゃなりまへん。(169)

 

*以上は、『禅 森本省念の世界』からの抜き書きである。わたしのこれからの修行にとって大切だと思われるものを幾つか選んでここに列挙しておくことにした。文末括弧内の数字は引用頁数である。