“わたしの森本語録”から(2)(令和3年7月21日)

 

クチナシ(禅塾近辺)

 

〇正しいとは、正が正に固執し自己を主張し、邪をどこまでも打ち滅ぼしてゆくのではなく、正は正しいままに正を忘れ、いわば対立する邪を徳でもって包んでゆく。邪を諷化して自然と正に転ぜしめるのが本当の正しさである。(37)

 

〇美を追求すると必ず行きつまる。そこを突破するところに禅が出る。そうすると、醜美一如となり、醜もまた美となる。つまり、見る眼が鋭くなりて、美ならざる所に新しい美を創造する。創造とは、見る眼の脱落を言う。シャガールの絵は醜、なれど美を開いた。(277)

 

〇美醜、善悪は皆相対的にして絶対的でない。何れも比較上の話だ。(53)

 

〇どんなよい事でも執着したら、堅くなり形が出来て邪魔物になる。(309)

 

〇概念に囚えられぬ、型に固執せぬ、無理せぬ。学を駆使するが学に駆使されぬ。科学は利用するがそれに束縛されぬ。(55)

 

〇自己形成の力を植え付ける、それが教育の根本である。・・・学生を遠回しに見ておればよいのだ。私が精進して努力しておれば、言わなくても付いてくるものは付いてくる。(81)

 

*長岡禅塾こそは「自己発見」と「自己形成」の力を養うことを主眼とした教育機関である。(大雲)

 

〇禅はどうしても詩歌音楽に通ずるものを基定とします。論理は禅の骨格となり得ても、髄となり生命になり得ないように考えます。声前の一句とか、一機一境の出て来る境涯とかは、論理よりもむしろ意志、情緒、感情の世界のことであるようです。(247)

 

〇人間最奥の根元的なものは詩や物語でないと十分に表現できんと私は確信、いや達観しています。初めにコトバありと道(い)わるる言葉が必ず物語となり詩となる。その次に哲学的な論理が生れる。この事が孔子の論語にありありと出ています。「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」(泰伯篇)、「詩を学ばずんば、言うことなし」(李氏篇)。(289)

 

〇(これらの点について)数学者岡潔博士の『春宵十話』を読んでください。(247)

 

*岡潔はその本の中で「人間最奥の根元的なもの」を「情緒」と呼んでいる。岡潔に関して「大雲好日日記」96、97を参照。(大雲)

 

〇一生懸命とは、一生の力、全生の力を尽くして即今の事に合体する事を謂う。・・・一生はその場その場であるから、・・・古人は一生懸命を一所懸命と正しく書いた。(176)

 

*「一所懸命」に関して、「大雲好日日記」の8、11、12、67、73、74を参照。(大雲)

 

〇(病の人へ)。病と闘うのではなく、病を友達にすると、疾病が邪魔になりません。妄想も亦さようでしょう。すもうをとらずに、おこらば起るままに、それがやがて[盤珪の]不生禅でしょう。丁度案山子の様に素直に。(223)

 

*盤珪の不生禅について「大雲好日日記」109を参照。なお近々「盤珪禅再考」という題で、その続編を日記に載せる予定。(大雲)

 

〇道元禅師の仰せし如く、生死は仏の御命にて、生も仏、死も仏、生が目出度くて死が不吉なるに非ず。生きるが目出度ければ、死もまた目出度きことに候。生死の、そのままが仏の寿命にて候へば、御互い老年の者も亦生を喜び、死に安んじ得ることに候。(239)

 

*以上のような森本老師の考えは、すべて老師の坐禅の(禅定)体験から来たものである。

そういうわけだから、結局一切は坐禅に帰するということになる。(大雲)

 

〇一切の道は皆静坐[坐禅]体験より出で、静坐[坐禅]体験に還帰する過程か。(92)

 

〇朝、昼、夜、と時を定めて、静坐[坐禅]なさる事。一寸した時間を利用して静坐する事。(242)

 

〇一寸の線香の燃ゆる間坐すれば一寸の仏、二寸坐すれば二寸の仏也。(98)

 

〇所謂静坐[坐禅]とは単なる坐相に限定せられず、語黙、動静の日常より生、死の大に至るまで皆みな静坐[坐禅]に外ならず。(85)

 

〇出家は心の出家、山は心中に求むべき事。また妻子への努力等も結局は坐禅に外ならぬ。一切の努力はその中心がきまると皆浄業となる事。・・・足を組むのみが坐禅でない事に反省すべし。(184)

 

〇技師をしながら出来ぬ禅なら科学主義と絶縁せる禅だ。ソンナ乳房の小さいものが何になるぞ。大乗仏教はソンナ偏狭なものではない。(192)

 

*括弧内の数字は引用した『森本省念老師』<上、語録篇>(燈影舎、1996.)の頁数。