田中清玄という男(令和3年7月28日)
向日葵(禅塾近辺)
「十月に珍しい人が来ました」。
1967(昭和2)年ころの、
森本省念老師のある人に宛てた手紙に、
そのような文章が見い出され、
私の眼にとまった。(『禅 森本省念の世界(上)』273~4頁)。
「珍しい人」というのは田中清玄(1906-1993)という人物である。
以前、浅井老師が提唱で山本玄峰老師の話をされた折に
時々この人のことにも触れられたことを私は覚えている。
それはこういう話であった。
(田中が龍沢寺の)僧堂で修行中、
特高刑事が田中を逮捕するためにやってきたことがあった。
玄峰老師がこれを拒み、
田中を逮捕するならば先ず自分を殺してからにせよ、と迫った。
刑事は、結局、老師のこの勢いに圧倒されて帰っていった。
玄峰老師は裁判のときにも田中の弁護人を買って出られた。
浅井老師はおおよそこのような話をして、
捨身覚悟で護法せんとする玄峰老師の生きざまを
私たちに示されたのであった。
ところで田中清玄とはいかなる人物であったのか。
彼は東大で美学を研究し、
マルキシズムにかぶれ共産党の運動にたずさわり、幾度か入牢。
彼の母はそのことを気に病んでついに割腹自殺をしてしまうのである。
このことに加え、
田中は共産主義を夢見てソ連に留学してみたのだが、
実際にはその国の民衆が共産国の抑圧下で
苦しんでいるのを目の当たりにして失望する。
田中はそこで行き詰まってしまったのである。
獄中でいろいろ本を漁り、その窮境を打破すべく
たどり着いたのが山本玄峰老師であった。
そこで、彼はついに禅に転じたのだ。
ところで田中はどういう理由で長岡禅塾にやってきたのだろうか。
田中はそのとき一人ではなかった。
他にも同伴者が数人いたようだが、
そのなかに田中が森本老師にぜひ会わせたい人物がいた。
ハイエク(Friedrich August von hayek, 1899-1992)がその人である。
ハイエクはオーストリアの経済学者で、
当時はフライブルク大学の経済学部教授であった。
その経済理論はマルクスともケインズとも異なって、
経済現象の解明を宇宙を貫く法則より展開してゆくという考え方である。
中国の老子を研究していて、これに共鳴していたようである。
経済学者としては相当変わっているように見えるが、
来塾7年後の1974年にハイエクはノーベル経済学賞を授与されている。
田中はそんなハイエクを
ぜひとも森本老師に合わせてみたかったのであろう。
森本老師はその時の印象をつぎのように述べている。
――田中は共産党での剛の者だと・・・聞いていたので、
どう難しいことを言うかと覚悟していましたが、
至って素直な、好感を抱かせる男でした。
ハイエクは経済学を老荘思想と結びつけ、
森本老師は禅を真宗と結びつけるというように、
その時の話は非常にレベルの高いものだったと想像されるが、
意は自ずと通じたようである。
森本老師いわく、
「ソレは田中は禅の理会があるからです。言語以前の問題です」。
要するに二人の禅者の間に、住む世界の違いを超えて、
清風が流れていたということなのだろう。
田中については、『田中清玄自叙伝』(ちくま文庫、2008.)を参照した。
この本には、表立ってはあまり知られていない、
わが国の昭和の政治経済界のことも書かれていて興味をそそられたことを付記しておく。
*ハイエク来塾の一件については、半頭大雅編『禅 森本省念老師』(春秋社、1984. 121~2頁)でも簡単に紹介されている。