「寂照院」長岡京歴史散歩(4)(令和3年8月4日)

 

寂照院 門前

 

寂照院は819年に東大寺の佐伯道雄僧都によって創建された

海印寺の子院10の一つで、当初は華厳宗の寺であった。

現在は真言宗を宗旨とする(宗派に所属しない)単立寺院となっている。

 

正確には木上山(このかみやま)海印寺寂照院といい、

奥海印寺地区の北端に位置している。

 

ちなみに「海印」の語は、

華厳経の中にでてくる「海印三昧(海印定)」から来ている。

印は写ること。海にすべてのものがそのまま

写しだされるような心の静まり(三昧)のことである。

 

仁王門(寂照院)

 

さて、寂照院に着くとそこに立派な仁王門が建っている。

その両脇に仏教の守護神である木造金剛力士像(吽形・阿形)。

本尊は木造千手観音坐像(鎌倉時代)で、

他に木造菩薩坐像(平安時代)、木造四天王立像(鎌倉時代)が伝わっている。

 

金剛力士立像(寂照院)

 

また寺伝によれば、道元が中国杭州から孟宗竹を持ち帰り、

その地に植えられたのが日本の孟宗竹の起源とされている。

 

石柱の奥に本堂(寂照院)

「日本孟宗竹発祥之地」

 

ところで寂照院の親寺である海印寺は、

創建当時は国家の保護をうけて寺勢も盛んであったが、

応仁の乱で残りの他の子院とともに焼失してしまい、

現在は地名としてその名をとどめているだけで、

滅亡した時期も寺の跡地もあきらかでない。

 

では海印寺は一体どのあたりに建っていたのであろうか、

そのことが少し気になるところである。

 

地区名として現在、

「奥海印寺」と「下海印寺」の二つが残っている。

「下海印寺」は海印寺の南の地区の意味であろう。

(京都市内では現在も北の方向を「上(かみ)」、南を「下(しも)」と呼んでいる)。

 

それに対して奥海印寺は海印寺の「奥」つまり「山奥」の方角を指すであろう。

実際、寂照院の西側の山林地帯に奥海印寺の地名が残っている。

そうすると、海印寺は下海印寺地区の北側、

奥海印寺地区の東側に位置していたことになる。

 

そのようにして海印寺の跡地を推測してみると、

やはり現在の寂照院の周辺に建っていたと考えるのが穏当なのではないか、

素人の私はそんなことを推量しながら楽しんでいる。

 

新撰京都名所図會(一部)

(長岡天満宮や寂照院の位置関係が分かる)

 

禅塾からは、

近くの村田製作所の外側に沿って奥海印寺通りに出たら、

その道をひたすら西に向かって歩き、

光風美竹通りまで来たら、それを右折、

やや行くと右手に寂照院が見える。

 

徒歩片道約20分。

寺院の背後には走田(はしりだ)神社が鎮座しているので、

機会があれば、そこにも日を改めて行ってみたいものだ。