アレの話(令和3年8月11日)

 

アサガオ(京都市内)

 

この7月のある坐禅会で、

御年70 歳前後(と私には見えた)の女性から

アレに関した質問を受けた。

 

なにせアレの話なので、

彼女もストレートに話をすることを

少し憚っていた様子だったが、

大体はつぎのような内容であった。

 

自分は若いころ、年がゆけば、

アレの方もカレてくるものだとばかり思っていたのだが、

その年齢になってみると決してそんなことはない。

いまそのギャップに戸惑っている云々・・・。

 

要するに、年老いた現在でも、

アレの欲求に悩まされているという

まことに悩ましい話なのである。

 

禅をふくむ大乗仏教全般の立場から

その問題を考えてみたい。

 

まずはっきり言えることは、

彼女がいまアレに囚われている、ということだ。

その不如意さに悩み(囚人はいつも不自由である)、

そのゆえに助け(助言)を求めたということであろう。

 

だから彼女を救済する手立ては、

その囚われから彼女を解き放ってやることである。

それにはどうすればよいか。

 

ひとつ例を挙げてみよう。

 

森本老師が30代後半で、まだ修行中であったころ、

学生だった従甥との間につぎのような問答があった。

従甥、「性欲はどんなふうに処理されてきたんですか」。

森本、「さあ、そんなときは水でもざあっとかぶっておくかな」。

(『森本省念老師 (下)』、97頁)。

 

要は囚われた心を転ずることである。

しかしながら実際にはこの転換が思いのほか難しい。

一度は転換に成功したように見えても、

すぐに又もやアノ欲求が頭をもたげてくることがある。

 

そこで仏教では、

何事であれ、自分が何かに囚われていることに気づいたら、

それは妄想(迷い)の世界に落ち込んでいることだと目ざめて、

そのつどすぐさま、そして繰り返し、心をいまなすべきことに転じるよう薦めている。

 

簡単に言えば、

散心(散漫な心)から定心(一つのことに集中した心)への転心のすすめである。

 

その方途として禅では、

たとえば掃除や除草などの「作務」をやらせている。

 

けれども、こうしたたゆまぬ精進にもかかわらず、

アレの欲求がなくなることはない(と思う)。

たとえば、仏教心理学(唯識仏教)では人間の深層意識(アラヤシキ)は

「生の執着」そのものだと洞察されてもいる。

 

そこで大乗仏教では、

その欲求を無理に抑え込もうするのではなく、

起れば起こるままにまかせて、

肯定も否定もせず自然に従うように教える。

 

しかし、又してもこの道が難行である。

かくして最後に、そうした精進をどこまでも重ねながら、同時に、

「煩悩無尽誓願断(煩悩は尽きることがないけれども誓って絶たんと願う)」

という誓願が立てられることとなるのである。

 

*以上、アレについての話をしてみたのだが、「日記」という性格上、コンパクトにまとめる必要もあり、その点で意を十分に尽くしたとは思っていない。幸い、「アレの話」 については、先師浅井老師が「チンチン考」(『無相の風光』所収)と題した文章を残されていて、こちらの方は長文ではあるが、それだけ詳しく語られている。少し難しいかもしれないが、挑戦してみようとお考えの方は長岡禅塾のアドレス宛に問い合わせてください。『無相の風光』を進呈させていただきます。ただし、部数に限りがありますので、先着順で一部の希望者にしかお送りできません。あらかじめ御承知おきください。(進呈させていただくことが決まりましたら、宛先を記入したスマートレター(180円)を長岡禅塾宛に送っていただくことになります。それにて発送させていただきます)。