盤珪禅再考ー聞法ということをめぐって(令和3年8月18日)
ソコベニ(禅塾近辺)
昨年の9月30日の大雲好日日記(109)で、
盤珪の不生禅について大要を述べてみた。
その時に不生禅の修禅法である「聞法」について
少し問題を感じ課題としておいた。
以来、「仏法を聞く」ということについて考えていた。
今そのことをまとめておきたい。
盤珪は、「皆人々、親の産み付けたもったは、
不生の仏心一つ、余のものは産み付けやしませぬわい。
不生な(の)が仏心、仏心は不生にして霊明なもの」と説く。
*「霊明」:一切をよく照らし別けること。
例えば、不生であっても(前もって聞こうと「思わなくても」)、
カラスが「カァ」と鳴けば「カァ」と聞き、
スズメが「チュン」と鳴けば「チュン」と聞き別けることができる
この不生の仏心だけをわれわれは親から頂いたのであって(本来不生)、
他のもの、つまりいろいろの「思い」というものは生れた後に、
われわれが自分勝手に付加した第二、第三に落ちたものにすぎない。
そういうわけだから、
盤珪の説くことをよく「聞き」「信じ」さえすれば、
安心(あんじん)の境地を手に入れることができる。
禅修行で用いられてきた棒喝などは必要ではない、と盤珪は説く。
ここで私の考えを述べれば、
盤珪が「不生の仏心で一切事は調う」と極言したことは、
それまで祖師方によって説かれてきたことと軌を一にしていて問題はない。
問題に思うのは「聞く」という修法に関してである。
どういうことかと言えば、果して盤珪の言うそうした「聞法」だけで
本当に不動の安心が手に入るか、ということである。
「聞法」に関しては、とくに浄土真宗の方でやかましく言われてきた。
「仏法は聴聞にきわまる」と蓮如は述べている(『蓮如上人御一代記聞書』)。
しかし他方で、「聞くこと」が「難中の難」だとも言われている(『教行信証』行巻)。
そういうことで、「聞法」について、
浄土真宗においては鋭い反省がこれまで重ねられてきた。
真宗では「聞」は差し当たって二の場面に別けて考えることができる。
① ひとつは僧侶などの説法を聞くという場面である。
しかし、このことが難しい。親鸞の『浄土和讃』に、
善知識にあふことも おしふることもまたかたし
(よき指導者に遇うことも 教えることも難しい)
よくきくこともかたければ 信ずることもなをかたし
(よく聞くことも難しいが 信ずることはいっそう難しい)、と。
②ふたつには釈尊の説法を聞くという場面である。
上の和讃につづけて『浄土和讃』に、
一代諸教の信よりも 弘願の信楽なをかたし
(釈尊が一生の間に説かれた教法よりも 阿弥陀仏の本願を信ずることは難しい)
難中之難とときたまひ 無過此難とのべたまうふ
(信じ難いものの中で最も信じ難く これに過ぎた難しさはないと説かれている)、と。
①②、いずれの「聞」の場面でも、それの「難しい」ことが強調されているが、
結局それらの「難しさ」は、②の「難しさ」に帰着するだろう。
注意したいのは、そうしたことが宗祖親鸞の口を通して述懐されている点である。
この点は非常に大切なところである。
つまり、「私たちが自分で聞こうとする道」は頓挫するのである。
聞こうとして聞くことができないのである。
私たちの「自我」がそれだけ頑強だということである。
それでここでひとつの転換が必要となる。
それは「我」という牙城を、「我」を超えたものに完全に開け放つことである。
『歎異抄』では、そのことが、「自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれる」
と言われている(第三条)。
ここでは、もはや「自分が聞く」のではない、「聞かせていただく」のである。
このようにして初めて本当に「聞」が成就する。
このように「聞」の完成にはどうしても、
その前提として自我が放棄されていなければならない。
翻って盤珪の場合、どうであろうか。
『法語集』には盤珪の説法を聞くために
連日多くの聴聞者が参集したことが記されている。
そして其の場で盤珪のいう不生をめぐる種々の問答がなされている。
そのような場合でも
盤珪は「聞いて合点がいかなければ幾度でも聞きなさい」、
あるいは、「念がでたら、その念に取り合わないようにしなさい」、
と懇切丁寧に注意するに止まっている。(盤珪禅師御示聞書)。
しかし、そのようなしかたで
果して最終的な問題解決が可能かどうか、
宗教的安心が成就するかどうか、
この点について私は疑問を感ずるのである。
盤珪の「不生で一切事は調う」の一句は、
何と言っても盤珪の深い禅定から生まれた悟りの語句なのである。
禅定とは「自我から無我へ」の転換である。
従って私たちが盤珪の説法を聞く場合にも無我で聞く必要がある。
そのためには坐禅によって禅定(無我)を体験することが
同時に要求されるのである。
*横田南嶺老師も近著『盤珪語録を読む――不生禅とはなにか』の中で再三、私がここで提出したと同様の疑問を呈しておられる。
(2021年12月10日、訂正加筆)