禅と念仏(4) 白隠『遠羅天釜』(令和3年9月8日)
白萩(長岡禅塾)
「禅者は念仏がわからないといけない」。
「念仏がわからない禅は本物ではない」。
「真宗のわからない禅坊主は本物じゃない」。
以上は森本省念老師の言葉である。
以前にこの日記で紹介したこともある(日記115参照)。
そこで、ここでは、「禅と念仏」に関して、
いち早くこの問題を取り上げた、
白隠禅師の法語集『遠羅天釜(おらてがま)』を見ておきたい。
白隠によれば、念仏と禅の公案(趙州無字)は、
修行のやり方が異なっていても、
その証するところは同じである。
大切なことは、
修行にむかう志の堅固なることである。
公案禅の修行者が純一無雑に公案を工夫して邁進し、
念仏の行者が一心不乱に念仏して退くことがなければ、
その道は違っていても、同じ悟りの頂に到達するのである。
白隠はこんな話を挙げている。
元禄のころ、山城国に円恕という念仏者がいた。
念仏が純一で忽然として往生の大事を決定(けつじょう)した。
そこで遠江国に独湛性瑩(どくたん・しょうえい、1628-1702)禅師を訪ねた。
独湛問う、「お前さんはどちらの人か」。
円恕曰く、「山城」。
独湛云う、「何宗を修行しているのか」。
円恕曰く、「浄業(念仏の行)」。
独湛云う、「では、阿弥陀如来の年はおいくつか」。
円恕曰く、「私と同じ年です」。
独湛云う、「で、お前さんはおいくつか」。
円恕曰く、「阿弥陀さんと同年です」。
独湛云う、「それじゃ、阿弥陀さんは今どこにおられるか」。
円恕はすぐに(ここですと言わんばかりに)左手を握って少しあげた。
独湛、驚いて曰く、「お前さんこそ真の念仏の行者だ」。
この話は大変おもしろいと思う。
円恕が阿弥陀仏と不二一体となっているところ、
その三昧の境は、禅に(いな、仏教全体に)通底する特質であって、
独湛はそこを見て、円恕を本当の念仏者と讃えたのであった。
白隠によれば、
このことを見通すことができないために、
禅者は、念仏者を軽蔑して、念仏者はみだりに念仏を唱えるだけで、
この世がそのまま極楽だということを知らない、と言う。
反対に、念仏者は禅の修行者を見て、
禅徒はわれらが凡夫であるということを忘れ、
それゆえ自力を恃み、如来の他力の誓願を信ぜず、
無理をするその高ぶりを笑止千万だというのである。
しかし、仏道に二つはない(仏道無二)。
白隠はこのことを示すためにさらに釈迦と達磨の説教を例証し、
また浄土教の高僧(蓮如、法然、慧心僧都)に言及している。
しかし、禅と念仏の目指すところが同じだからと言って、
両者を混同することは避けなければならない。
いわゆる念仏禅のことである。
森本老師もこのことは強調されていた。
禅門にいながら、日頃の修行を怠り、
ゆえに禅定の力が乏しく、臨終の時がせまってくると、
にわかに浄土を願う念仏の行をすすめて説教もする。
つまりは以前の禅修行が何の役にも立っていないのである。
白隠に言わせると、これらの輩は
禅門にいながら禅門を誹謗するものである。
それだけではない。
かえって浄土の宗旨をもよく理解しないものである。
禅と念仏は同一の仏教に属しはするが、
他方、あくまでも禅は禅、念仏は念仏なのである。
*『遠羅天釜』(『白隠禅師法語全集』第九冊、禅文化研究所、2001.)
簡便なものに、『遠羅天釜』(現代語訳 禅の古典11、講談社、1982)がある。