(続)人間  正岡子規(令和3年9月29日)

 

彼岸花(禅塾)

 

行く秋の我は神無く仏無し

 

この句は、明治28年8月の作として拾われている子規の句である。

この時期、子規は日清戦争から瀕死の状態で帰国し、療養中の身である。

この句は、そうした状況下に置いて鑑賞してみる必要がある。

 

子規は生涯、宗教とは無縁の人であった。

「宗教を信ぜぬ余には宗教も何の役にも立たない」(『病牀六尺』)。

焦燥地獄のような病苦に毎日苛まされていても、

そのようにきっぱりと言い放つ子規であった。

 

しかし、宗教とくに仏教に対して無関心であったというのではない。

なかでも日蓮は子規のお気に入りの仏教家であった。

 

鯨つく漁夫ともならで坊主哉(日蓮賛、と題して)

我国に日蓮ありて後の月

 

28年の療養中、子規は日蓮記を読み、いたく感動したようだ。

柴田宵曲によれば、子規は日蓮を「最後の大宗教家なり」と評価した。

しかし、それは日蓮の宗教心そのものを見てのことではなく、

「烈々たる日蓮の性格」が彼を惹きつけたに過ぎない(『評伝 正岡子規』)。

 

*粟本則夫は、「子規が、この日蓮像のなかに、俳句革新の野望にあふれたおのれ自身の姿をみていることは言うまでもあるまい」と述べている(『正岡子規』)。

 

そのような子規の性格として、彼の「ますらおぶり」が指摘できるように思う。

子規は芭蕉の句の感嘆すべき点として「雄壮」を挙げている。

例句として、「夏草やつはものどもが夢のあと」「五月雨を集めて早し最上川」

「あら海や佐渡に横たふ天の川」など(栗津則夫『正岡子規』)。

 

子規が日蓮を好んだというのも、

言ってみれば、日蓮の「雄壮」が、

子規の「ますらおぶり」に共鳴したためではなかったと思うのである。

 

日蓮の外にも法然や最澄を賛した句も残っているが、

いずれも人物評価の域にとどまっていて、仏教の深奥にふれたものではない。

禅関係では『無門関』や『碧巌録』を少し覗いた様子が見える。

しかし、これも語録の字面を追った程度にすぎない。

 

宗教を信じなかった子規ではあるが、

それにもかかわらず、子規の文章を読んで不思議に思うのは、

そこに人を憂鬱にさせるようなものが感じられないことである。

批評家の栗津則夫はつぎのような感想をもらしている。

 

「その文章に、(中略)暗いもの、じめじめしたもの、感傷的なもの、

ヒステリックなもの、あるいはまた無理に虚勢を張ったもの、

そういったものが不思議なほど見られない」。

 

病苦の問題にしてもそうである。

彼は、「病に住しながら時に病を離れるところがある」(柴田宵曲、同上)。

これらの点だけをみると、子規はまるで宗教者のようでもある。

しかし神仏を信じない彼はやはり宗教者ではなかった。

 

世の中には、子規のように、宗教は信じていないが、

その生き方において宗教的だと思わせる人がいるものである。

子規もその一人であるのだが、

その場合、何が彼をそのように振舞わせたのだろうか。

 

この点について、私の指摘した彼の「ますらおぶり」という点から言うと、

余り物事にこだわらない比較的淡白な性格を挙げることができるかもしれない。

 

しかし、子規の病状はそのような生来の性格をもってしても、

耐えることができないほど重篤であった。

そこで彼が最後に頼ったのは神仏ではなく人間である。

 

子規の周りには漱石をはじめ、俳人、歌人など多くの弟子・友人・知人がいた。

彼はこれらの人だけでなく、新聞の読者にさえも、そのつど自分の病状を訴え、

そうした交流を通じて幾分か慰めを得ていたようなところがある。

 

漱石が来て虚子が来て大三十日(明治28年)

 

明治35年6月21日、新聞「日本」紙上で、

子規は最後の救いを求めて読者に次のように訴えている。

「『誰かこの苦を救ふて呉れる者はあるまいか』

情ある人我病牀に来つて余に珍しき話など聞かさんとならば、

謹んで余は為に多少の苦を救はるることを謝するであらう」(『病牀六尺』)。

 

子規は河東碧梧桐への書簡で、「人間よりも花鳥風月が好き也」と言っているが、

碧梧桐によれば、それは「小説より発句が好き也」の意のようだから、

子規が最後に人間に頼ったということとは矛盾しないだろう(『子規を語る』)。

 

こんなことをあれこれ取り留めもなく考えているうちに、

季節はめぐって、やがて神無月を迎える時節になってしまった(呵々)。

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