<寄稿>「幸福は中間に隠れている」

フィリップ・ジョーダン(Philip Jordan)

 

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HAPPINESS HIDES IN THE MIDDLE (By Philip Jordan ’85)

 

 

ヒノキ林(長岡禅塾)

 

フィリップ・ジョーダン(Philip Jordan):
卒塾生。1993-1995在塾、現在、アメリカの東部・ニュージャージー州にある名門ローレンスビル・スクールの宗教・哲学部門長。禅仏教の修行者として教育に加え瞑想を指導、また石庭を管理し、しばしば長岡禅塾を訪れている。

*表題中の「中間(middle)」とは、対立する二項(たとえば、幸・不幸)をともに超えた、仏教の「空」の立場によって開かれる「あるがまま(如々)」「真如」の世界。サンスクリット語で「タタター“tathata”」という。

 

坐る時には、ただ坐れ。

立った時には、ただ立て。

ふらふらするな。

 

初めてこの言葉を聞いたとき、私はウィリアムズ・カレッジにいて、敬愛する師であるユースデン教授の助力を得て、禅と道教に深く傾倒していた。彼は私たちに教室での短い坐禅(瞑想)や道教の森歩きを試させたが、こうした実践に私は驚き憧れをいだいた。その時にはほとんど何もわからなかったが、こうした興味がその後に私を日本の僧堂(長岡禅塾)に導くこととなったのである。

 

禅によって葛藤や苦痛がなくなるわけではない。そのことは禅塾に到着後はっきりと分かった。当時、私は健康で仏教を深く研究していたが、いろいろのことに悩まされた。特に努力しても捕らえどころがなかったのが、禅修行の目標である正念相続(continual meditation)であった。

 

私は禅堂での時間を愛し、引磬(いんきん)が鳴るまでの沈黙を味わった。こうした精神を俳句の勉強、老尼僧や老師とのお茶といった味わい深いことにつなげることができた。

 

しかし、禅の生活には細心の注意を払わなければならない掃除とつらい作務がかなりある。私は目的のある作務、たとえば薪割りや竹藪の間引き、苔の上や石庭の落ち葉掃きをいやだと思ったことはなかった。しかし、塵の見えないところの掃除に至っては、しばしば余り精神的ではない判断をしてしまったのであった。

 

その一つは、迷路のような廊下を一日二回、雑巾がけすることであった。私はこれを運動として渋々やっていたのだが、それを終えても廊下が前よりもきれいになることがないことは分かっていた。掃除の時には、どうして既にきれいなものをまた掃除するのかと訝しく思ったのである。

 

また、風の強い日には、箒で掃く先から落ち葉が積もることがあった。ある日、私が懸命に掃いたところに新しい落ち葉が落ちてきて一面を敷きつめたとき、私は老師にため息交じりに「やってもまったく無駄です!(This is almost hopeless!))」と言ったことがあった。だが、老師は、「それは禅の言葉そのものだ」と言われたのだった。

 

私にはフラストレーションがたまり、フラストレーションがたまったからこそ、他の多くの人たちが作務(work meditation)にあてた集中とエネルギーに感嘆せざるを得なかった。そうした人たちは修行の長い雲水だけではなく、芸術家、大学教授、ビジネスマンなど、禅塾で日曜日の一日を過ごしに来る人たちであった。私は彼らの臨機応変な作務のしかたに優美さを認め、そのことが最もありふれた作業を崇高なものにしたのであった。

 

禅では人のあり方に、苦悩(dukkha)、幸福(sukha)、真如(tathata)の3種類があるといい、それは禅における幸福を知ることに役立つ。なんども襲ってくる軽度の苦痛から、超過激な衝動まで、ブッタの説く四諦説の気高い最初の真理は、止むことのない苦悩(dukkha)の循環を描き出す。この源は敵意、惰性、貪欲といった不安定な衝動である。

 

幸福の時(sukha)は、その喜びの気分が少しの間は不快に抗う効力となることができるが、苦悩(dukkhaは一掃されずに背景に留まりつづける。これら「苦悩(不幸)」と「幸福」の二極の中間には、「真如(tathata)」という最後の隠された領域があり、それは、「あるがまま(如々)」とでも訳すことができるが、すべての瞬間の基底にある二度と来ることのない驚異と深淵を示唆するものである。そして、それらすべての瞬間の中には同一の「仏性(Buddha-nature)」が隠れているのである。実はそれこそが、他のすべての禅の修行者と同様に、落ちて止まない落ち葉を掃きながら、私が求めたものであったのであった。

 

長岡禅塾の生活における向上の程度は、それほど目覚ましいものではなかったが、しかし時間がたつにつれ私の作務に対するかかわり方は変わって行った。同じ作業を繰り返せば繰り返すほど、それは私にとって特別で限りないものになって行った。一日の終わりに畳に横になると、苔の茎や小枝、葉っぱ、カブトムシなどが輝きを放って目の前に立ち現れるようになった。

 

私は、かつての先生であり、その時に教職員の長であったキャサリン ボクズコフスキーに母校に呼び戻されるまで禅塾で4年間を過ごした。その後の15年間をローセンスビルで宗教と哲学を教え、瞑想を指導してきた。

 

親愛なる禅友を後にし、「世の中に戻る」時に、私の教師職の人生が“tathata”の探求を助けてくれるかどうか半信半疑であった。しかし、多忙な日々を今に集中しつつ過ごすことが簡単ではない点において、ローレンスビルは禅塾と異なるものではない。成人の心に成長しはじめる生徒の知的才能から、寄宿舎の運動やクラブの交流にいたるまで、彼らの本来の資質が輝くこれらの場で、もし私が楽しく対応できないとすれば、そのことに対して私は自らを謗るほかはない。

 

禅ではブッダが悟りの生活の範となるよう“山から下りた”と教える。つかの間の楽しみに執着したり、あるいは苦痛の恐怖に後ずさりすることのない実践は、誰であろうと始めることができるものである。(ローレンス校雑誌、2013年冬号掲載。伊藤靖 訳)

 

*正念相続:正道を憶念しつづけること。

*真如:「あるがまま(如如)の世界」「真実の世界」のこと。

*四諦説:釈尊によって説かれた四つの真理、すなわち、①此の世は苦であるという真理(苦諦)、②苦の原因は煩悩であるという真理(集諦)、③苦の原因は悟りにより滅するという真理(滅諦)、④悟りに導く道があるという真理(道諦)。