「長岡天満宮」長岡歴史散歩(4)(令和3年10月20日)
長岡天満宮 本殿
長岡天満宮は長岡禅塾の“お隣さん”である。
と言うよりは、禅塾はほとんど天満宮の社領内にあると言ってもよい。
まず禅塾正門前の小道は天満宮への参道を兼ねており、
ここを通らなければ禅塾の門に到ることはできない。
しかし、だからと言ってこの“お隣さん”のことが
私にすべて分かっているわけではなかった。
今回、社殿周辺などをわりあい詳しく見て歩いて、
これまで知らなかったことを幾つか発見することができた。
この地一帯は平安時代には菅原道真(845-903)の所領で、
道真は在原業平らとここに遊んで詩歌管弦を楽しんだようだ。
昌泰4(901)年、時の左大臣藤原時平の讒言によって
大宰府に左遷された折りには、ここに立ち寄り
「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残りを惜しんだという。
菅原道真を祀る長岡天満宮のはじまりは、
この地に道真自作の(自らを模した)木像を
御神体として祀ったことによる。
(その木造が観音菩薩像ではなかったのは残念である。
と言うのも、道真は熱心な観音信仰の信者であったからである)。
その木像であるが、それは大宰府への道中、道真のお供をした
開田村(現在、長岡京市開田)の中小路宗則が、
道真から贈られたものである。(「長岡京名所・観光史跡案内」)
ちなみに現在の長岡京市の市長は「中小路」氏である。
長岡天満宮 石段
意外なことに禅林句集(『塗毒鼓』続編)に
道真が大宰府で作った漢詩の一部が採録されている。
その漢詩は「不出門(門を出でず)」と題され、
一行七言の律詩(8行詩)であるが、
句集では最初の4行だけが2行ずつに分けて
別々に載せられているので、ここでもその4行のみを掲げてみよう。
一從謫落在柴荊 (ひとたび、たくらくして、さいけいにありてより)
萬死兢兢跼蹐情 (ばんし、きょうきょう、きょくせきのじょう)
都府樓纔看瓦色 (とふろうは、わずかに、がしょくをみ)
觀音寺只聽鐘聲 (かんおんじは、ただ、しょうせいをきく)
意味:
ひとたび左遷されて配所の門に入ってからは、罪万死にあたる思い、戦々兢々と、天の高きにもせぐくまり、地の厚きにもぬきあしし、(薄氷をふむ思いで)ひたすら謹慎している。
されば、都府楼は瓦の色を纔かに望見するだけで一度も登ったことなく、近くにある観音寺もただ鐘の音を聞くだけで、往ったことはない。(『日本の漢詩』新釈漢文大系)
このように「不出門」の詩は大宰府に蟄居中の道真の詫び住まいを詠っているのであるが、
「禅林句集」では、「一従謫落」で始まる最初の2行に「戦々恐々とした情」を、
「萬死兢兢」で始まる次の2行に「静寂を楽しむ境」というように、
別々の境涯をみようとしているために二つに分かたれているのである。
道真の「不出門」の詩全体を支配している気分は、
流刑地での絶望、失意、望郷の感である。
道真はそういう気持を懐いたまま、
左遷から二年後に大宰府でなくなることになる。
その後、京の都で落雷などの災害が起こった。
当時の権力者たちはそれを道真の怨霊のためだと考え、
それを鎮めるために建てられたのが京都の北野天満宮である。
道真はまた聡明で幼くして学問に優れていたので、
学問の神様として庶民に親しまれていることは知られている通りである。
そこで道真について、こんな川柳が詠われた。
人となり雷となり神となり
道真に関してはこんな笑い話もある――
大阪の天神さんへの賽銭はコインでなければならない。
なぜかと言うと、天神さんは紙幣(=時平)を憎んでいるから、と。
これは賽銭まで安く値切ろうとする大阪人の“がめつい”発想であろうか。
最後に道真のすばらしい道歌を紹介してこの話を終わることにしよう
心だに誠の道にかないなば 祈らずとても神はまもらん
長岡天満宮 参道