黒住宗忠の宗教(令和3年10月27日)
タマスダレ(禅塾近隣)
黒住宗忠(1780-1850)は黒住教の教祖である。
備前(岡山)の禰宜職の家に生を受けている。
幼少の頃より父母に仕えること厚く、
このことがひろく世間に知られる孝行の人であった。
ところが宗忠22歳の時に両親が病気のために、
わずか数日の間に相ついで世を去るという痛ましい事が起きた。
彼は父母の遺品を手にして慟哭し、墓前にぬかずいて慟哭した。
その悲しみのため、時に絶息することさえあった。
そのためについに宗忠は肺を患って再起不能の重体に陥ってしまった。
死を覚悟した彼は永訣のために太陽を拝し、天神地祇を拝し、
祖先の霊をも拝して、在世中の恩を謝して、従容として死を待った。
ところがその時、彼に次のような思いが起ったという。
自分は父母の死を哀しむあまりに大病になったのだから、
反対に心を転じて万事面白く楽しく思い陽気になれば
病は自然に治るはずである。
それからというもの、彼は何かにつけて、
天地の恩をありがたいことと思い、
その方向に心を養うように努めるようになった。
その結果、彼の病は見る見るうちに癒えていったのである。
このような経験が黒住宗忠を次のように覚醒させた。
「悲しい」「辛い」の心を去って、
「面白い」「楽しい」の心こそが神の人間全体に対する願いであり、
喜び、楽しみこそが神の人間に命ぜられた本来の姿に違いない、と。
この覚醒のよろこびは日を追って成長し内面化していった。
34歳の冬至の早朝、宗忠が心身を清めて日輪を遥拝した時のことである。
紅輪が突然、彼の胸中に飛び込んできたのである
彼はこの時、日輪の光と完全に融合した。
宗忠のこの体験は、瞑想中の釈尊に明けの明星が
飛び込んできたという出来事を想起させるのであるが、
釈尊がそこから立ち上がって説法を開始したのと同様に、
宗忠もその体験を天照太神からの「天命直受(じきじゅ)」と受け取り、
伝道を開始しはじめるのであった。
宗忠の宗教には上に見たように、
たしかに神道色がつよく感ぜられるのであるが、
その教えにはその枠を超えたような一面がある。
そのことを彼の残した歌を通してみておきたい。
わがわれと思ふ我身は天のわれ わがものとては一物もなし
我はただ我なき道をわれたずね 我なしに行く我ぞたのしき
何事も云うことはなかりけり ただにこにことわらうばかりに
これらの歌には仏教にも通じる無我の境をみることができよう。
宗忠の宗教の究極の一句は「離我任天(おまかせ)」の一事に尽きる。
有無の山生死の海を越えぬれば 爰(ここ)が安楽世界なるらん
有無や生死を越えた「永遠の自己」だけの世界が
黒住宗忠の宗教世界である。そこに安楽の世界がある。
神仏ひじりというもあめつちの 誠の中に住めるいきもの
「天地はいきものである」とは宗忠の有名な言葉である。
「天照太神」は万物を生かすこの不可知の「いきもの」を
人格化した呼称にすぎない。仏教ではこれを「仏性」と呼んでいる。
宗忠において人間が不死であると考えられるのは、
人間が「いきもの」「いきどおし」である天照太神とひとつであるからである。
道元はこのことを「生死は仏の御命である」と言った。
黒住宗忠の宗教には、
この他にも禅仏教に通じる点が多い。
詳しく研究してみる価値がありそうである。
以上は、長岡禅塾の書庫で眠っていた
越智秀一著『真人宗忠』(紫雲荘出版部、1956.)を一読して、
その留意点をごく簡単にまとめた覚書きのようなものにすぎない。