一日暮らし

 

紅葉(長岡禅塾)

 

ある人のいうのに、

「一日暮らしということを工夫してからというもの、

精神がすこやかになり、また養生の要領を会得した」と。

 

どうしてそういうことが言えるかというと、

一日は千年万歳の初めであるから、

一日をよく暮らすように努めれば、

その日は知らぬ間に過ぎてしまうのである。

 

それなのに翌日はどうしようこうしようと

まだわからないことを苦にして、

しかも翌日のことに呑みこまれ

その日を無駄にすごしてしまいやすい。

 

そのようにして一日が終わり、

翌日またつぎの日のことを考えたりすると、

全体が持ちこされるだけで、

今日という一日がなおざりになって、

心が今のことから離れて散漫になってしまうのである。

 

とかく明日のことは命のこともおぼつかないというものの、

だから今日のことをいい加減にしてもよいというわけではない。

今日一日の勤めを励みつとめるべきである。

 

どれほど苦しいことでも、

一日と思えば耐えることもやさしい。

楽しみも一日と思えば、それにおぼれることもない。

 

愚かなものが親孝行しないのも、

その期間が長いと思うためである。

一日一日と思えば嫌気が起ることもないはずだ。

 

一日一日をつとめれば、

たとえ百年であろうが千年であろうが

つとめやすいものである。

 

どうしても一生のことと思うから

おっくうになるのである。

 

一生といえば長いことのように思えるが、

すぐ後までのことなのか、明日までのことなのか、

一年二年あるいは百年千年までのことなのか、

そんなことを知る人はいまい。

 

一生を死までの期間と考えると

一生は長いように思われるが、

死はいつやってくるかもしれない。

一生という言葉にだまされてはならない。

 

そういうわけであるから、

私たちにとって一大事とは、

今日ただ今の心である。

それをおろそかにして明日はない。

 

すべての人に

遠きことを思いはかる心はあるが、

眼前の今を失っていることに気がついていない。

 

『一日暮らし』(正受老人)現代語訳

 

*これは正受老人の文章「一日暮らし」の意訳である。正受老人とは道鏡慧端(1642-1721)のことであり、臨済宗中興の祖と称される白隠慧鶴を育て上げた大禅匠である。至道無難の法をついだ後、信州飯山に草庵を結んで正受庵と号して住んだので正受老人と呼ばれた。

正受老人の「一日暮らし」は私がいつも言う「一所懸命」、すなわち「時々刻々に変化するその都度の状況に自分の全生命を投げ入れて生きる」ということを、時間の単位を「一日」に置き換えて言い直したものだということができるだろう。別に「一日一生」という禅語もある。

*「仏教は未来のことや過去のことを言っているんじゃない。・・・現在を見つめるのです。現在の心持ちを尊ぶのです。そこに不変の大生命があるのです。」(澤木興道『禅談』)

「花は全花、実は全実ということである。花は実を結ぶための花ではなく、花の時は花の全花である。実は花の終わりではなく、実の時は実の全実である。」(同上)